2017年8月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 夏の海、夏怒涛、土用波、西瓜、晩夏

へその緒が天見上げをる団扇かな
大森健司
日帰りて海馬(かいば)に夏の海眠る
菅城昌三
晩夏光白いノートに紺の文字
西川輝美
白き家棲む夢にある晩夏光
速水房男
枯山水夏の光の流れけり
渡部新次郎
晩夏光あすにかけだす強き影
河本かおり
ゴーギャンや晩夏の海に色を足す
武田誠
時満ちて夜が滴(したた)るメロンかな
松浦美菜子
夏椿うしろ振り向きざまに落つ
山本孝史
夏の海重きこころを浮かせをり
池上加奈子
空豆や若き香りにむせかえる
白川智子
梧桐(あおぎり)を持つて埋まらぬ庭の空
前川千枝
夏の海白い帆先に夢があり
臼田はるか
八月の水に触れゆく鳥の影
中谷翔
十七歳君がいた夏めぐり来ぬ

土用波荒ぶる魂の叫びかな
上田苑江
立秋やシャツに染み込む陽の薄き
柴田春雷

日帰りて海馬に夏の海眠る
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この句を見たときに、ある名句を瞬時に思い浮かべた。
大野林火の代表句である、
ねむりても胸の花火の胸にひらく
大森家の俳句の始めの師は大野林火先生である。
この作品も何度、読み直してみても素晴らしい。
同意見なので、山本健吉氏の素直な講評を引用すると、「旅先で見たある町の花火の美しさが、何時までも胸に残っている。闇の中にその花火が見え、胸の中にパッと花開く」
昌三の作品も同様。
大野林火ほどの華や彩りはないが、日帰りで行った海の波の煌めき、水際での声が、帰ってきた今でも記憶を司る海馬に残っているといるというもの。
また最後の「海眠る」という措辞が大変良い。
これは俳句独特の瞬間的な切り取りではなく、叙情的な詩が根源にある。
文句なしの特選作品である。

晩夏光白いノートに紺の文字
西川輝美
この句ははじめ、秀逸で選んでいた作品である。
むしろ、特選であったのは、
くろぐろと人影動く原爆忌
である。作品の完成度で言うと、こちらの作品の方が上かも知れない。
しかし、作者が分かればそれは逆転することもある。
晩夏光白いノートに紺の文字
の方が「西川輝美の俳句作品」としては、俄然上である。
これは永遠の青春性を謳ったものである。
その青春は、そして存在しない。
これは描写でも実写でもない。
西川輝美の「欲望」である。
フランソワ・オゾンの『スイミングプール』というフランス映画がある。
ある低迷している人気中年女性の作家がヴァカンスに行って、そのさきで若い奔放な美少女と出会い、虚構を彷徨うという物語であるが、これも原点にあるのは「欲望」である。
輝美の中に「青春性」が存在しないからである。
無い物ねだりを全身で詠っているところが等身大で非常に良い。
「白いノートに紺の文字」
この措辞は青春性の代名詞なのである。
晩夏光をもってしても、それは少しも失われてはいない。
西川輝美の新たな、素晴らしい代表作品とも言える。

白き家棲む夢にある晩夏光
速水房男
「森」中央支部秀逸。
これも、兼題の「晩夏」を用いた晩夏光。
これは、作者が白い家にいつか住みたいという願望。
その願望にまで「晩夏光」が射しているというもの、である。
作者は常々、海の側の白い家に憧れている。
この句も昭和の良き時代、カドカワ映画の片岡義男などの陰影が作者にある。
晩夏光までが夢の中に存在するという発想自体が面白く、作者らしい自然体の等身大の作品である。

枯山水夏の光の流れけり
渡部新次郎
「森」中央支部秀逸。
まず、「枯山水」と持ってきて、その後夏の光の動きを持ってくるあたりが巧みである。
枯山水で京都で特に有名なのは、龍安寺であるが、それは特定しなくとも良い。
むしろ、このに「枯山水」は、龍安寺でなく、手付かずの寺であった方が良いかも知れない。
非常に纏まりがあり、美しい作品。
「夏の光」というあたりに作者のまだまだ男として、人としてみなぎる力のエネルギーを感じざるを得ない。
これが兼題の「晩夏」だと「枯山水」との組み合わせが臭くなりすぎてしまうのである。
男として、一人の人間として筋の通った作品。

晩夏光あすにかけだす強き影
河本かおり
「森」中央支部秀逸。
兼題の「晩夏」。
この句の成功は、焦点を光でなく影に当てた事にある。
「あすにかけだす」という陽と「強き影」という陰のバランスが非常に良い。
季語として持ってきた「晩夏光」も決してそれを妨げてはいないところに鍵がある。

時満ちて夜が滴るメロンかな
松浦美菜子
「森」祇園支部特選。
メロンの例句として、
籐椅子にペルシャ猫をるメロンかな 富安風生
青メロン運ばるるより香に立ちぬ 日野草城
があるが、この二つの作品よりエロティシズムに溢れているのが、作者の作品である。
メロンの昼と夜では貌が異なる。
この作者は夜のメロンに焦点を当てている。
そこが面白く、妙である。
「時満ちて夜が滴る」と措辞も非常にエロティックでユーモラスがある。

そら豆や若き香りにむせかえる
白川智子
「森」祇園支部特選。
これは「そら豆」の持つ若さの象徴を逆手にとった、非常にユーモラスな作品。
そら豆の青臭さは非常に美味しくもあるが、鼻につく。
作者には、この洗練されていない若さへの賛美と、そこから一歩引いた視線で「むせかえる」のである。
心象風景を見事に昇華させた作品。
参考までに細見綾子の作品を挙げておく。
そら豆はまことに青き味したり 細見綾子

土用波荒ぶる魂の叫びかな
上田苑江
「森」中央支部特選。
まだ二度目にして、この実力には驚きを隠せない。
まさに土用波とは、夏の土用の頃に太平洋沿岸に打ち寄せてくる、うねりの高い大きな波のことを指す。
それを作者は素直に「魂の叫び」と措辞している。
女性の句はともすれば「承認要求」に陥りやすいが、作品の句には自然への畏敬の念や慈愛の心が感じられ、詠み手に自然の美しさを思い起こさせる。
俳句は詰め込みすぎでも、物足りすぎでもいけない絶妙なバランスで成立する。

立秋やシャツに染み込む陽の薄き
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
今年の立秋は例年より少し早かった。
秋に入り、心象的にも暑さが弱まってきた候の作品。
この「シャツ」を着ているのは、恐らく男性だと感じる。
夏の終わりとともに、少しの寂しさとまた来る夏の思いをもそこに感じさせる心象風景の写生作品。
また言葉、措辞共にシンプルで非常に平明ながら、素直な作品である。

夏の海帆先に白い夢があり
臼田はるか
十七歳君がいた夏めぐり来ぬ

このふたつの作品からも、夏独特の青春性を感じられる。
青春の煌めきとその後に来る影、人生には憧憬と後悔が付き纏うのである。
人の一生は、長い。
だからこそ青春を謳歌することは素晴らしく、肉体の衰えがあっても情熱は冷めない。

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。
「森」俳句会はさらに充実した句会となっている。
以下、参考までに大森健司、2017年夏の主な俳句作品を挙げておく。
風薫る天に祭りのあるごとし
とある日の水に夕日や健吉忌
青田風身の寄る辺なく光りけり
うすものや先に暮れたる尾骶骨
水打つて夕空に径つづきをり
短夜の月へと爪を切りにける
人波やひとを金魚の横切りぬ
神に嫁(か)すをんなが夏の沖にあり
さきの世は貝となりたる暑さかな
あをぞらのあのあたりかな草田男忌



俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
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2017年7月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 巴里祭(パリー祭)、打水

人波や人を金魚の横切りぬ
大森健司
巴里祭の夜に金星を見失ふ
菅城昌三
裏窓に唄ごゑありて巴里祭
西川輝美
水打つて黒いドレスの通り過ぐ
速水房男
打水を浴びて始まる恋のあり
河本かおり
週末の花火に濡れてかえりけり
武田誠
花火見る大きな指に抱かれて
松浦美菜子
夕立きて心も傘も折りたたむ
山本孝史
遠青嶺道は真っ直ぐありにけり
池上加奈子
戸惑いしうなじの汗を拭いたり
白川智子
蝉時雨両手に掬ふ朝の水
前川千枝
影にきて影に消えたる庭の蝶
臼田はるか
ところてん女に裏と表あり
中谷翔
鋼鉄の貴婦人も居り夏の空

海いろを目にとどめをり祭鱧(まつりはも)
上田苑江
でで虫や描かれなかったクロニクル
柴田春雷

巴里祭ふと金星を見失ふ
菅城昌三
「森」中央支部特選。
巴里祭とは、1989年、パリ市民がバスティーユ牢獄を解放して打倒する火蓋を切った7月14日。この日はフランスの祝祭日となり、一晩中、飲み、歌い、踊りあかす。
巴里祭の名前の由来はフランス映画「ル・カトルズ・ジェイエ」より。
作者は巴里祭の騒ぎの高揚によって、金星を見失ったのか、もしくは 金星=VENUS(女性の意)を見失ったのかは定かではない。
そこは詠み手の想像に任せるとする。
どちらにせよ、非常に発想の着眼点が面白く、巧みな作品。
映像やイメージの復元が出来る作品。
他にも、
夜店には星の欠片も売られたる
も佳吟である。

裏窓に唄ごゑありて巴里祭
西川輝美
「森」中央支部特選。
この発想は私、大森健司の巴里祭の発想に非常に似ている。

私が兼題の巴里祭で出した作品はこれである。
裏窓を開けてひとりの巴里祭 大森健司

この輝美の作品も映像の復元がしっかりと為されている。
パリの京都にも似た細い路地の裏窓を想像させる一句である。
他にも、
パリ祭や窓のかたちに日の暮れむ
むらさきに空のかたむくパリー祭
が同時作にあったが、前作はこれらを凌ぐ物語性のある作品となっている。

水打つて黒いドレスの通り過ぐ
速水房男
「森」中央支部特選。
映像が鮮明に焼き付いてくる作品。
個人的なイメージとして、黒いドレスの女性の顔は見えない、様に思われる。
背中越しに真夏日の焼き付いた路地を遠ざかってゆく女性像を思わせる。
言葉が平明で素直でありながら、しっかりと映像の復元、リズムの良い心地よい一句。

打水を浴びて始まる恋のあり
河本かおり
「森」中央支部特選。
これも兼題の「打水」。
はじめ、この作品の目の当たりにしたとき、不思議な違和感を覚えた。
しかし、しばらくしてこれがフィクション、虚構であったとしても、ありえる話ではないか、と感じはじめた。
打水の水がかかり、そこから会話が生まれる。
「打水」で今までこの様な例句は無かったのではないだろうか。
恋の在り方として、アクシデントから起こることは少なくない。
個人的に非常に面白く気に入っている。

鋼鉄の貴婦人も居り夏の空

「森」句会支部特選。
まず、「鋼鉄の貴婦人も居り」という措辞が大変、面白い。また他に例を見ない類想のない作品。
ダイナミックな「夏の空」との対比も非常にコントラストが良い。
少しのユーモアもあり、詠み手の想像を膨らませる作品である。
他に、
この先に夕顔と呼ばれし女いて
白百合よ今宵汝が手に落ちる
もあり、秀作。
特に、
この先に夕顔と呼ばれし女いて
が俄然良い。
虚構と現実の世界観。
また映像も不思議と再現される。
良い意味で俳句らしくない良さがある。
夕顔といえば、『源氏物語』をまず思い浮かべるが、それを踏まえまくとも良い。
夕顔のはかなげさ、夢うつつ、非現実さが実に面白い。
個人的に好きな作品である。

海いろを目にとどめをり祭鱧
上田苑江
「森」中央支部に7月より、新しく入会された女性である。
同時作に、もうひとつ優れた作品がある。
祭鱧求めて店の奥の奥 苑江
「海いろを目にとどめをり」の方が格調があり、重みがある、そして普遍性を持った作品。
勿論、特選の作品である。
素晴らしい「感性、イメージの力」である。
俳句の三原則である、
①映像の復元
②リズムの良さ
③自己の投影
も見事に為されている。
季語の「祭鱧」が、作品全体を甘くしすぎず、程良い「詩の乾き」を作品にもたらしている。
また格調があるのもこの季語の恩寵。
素晴らしいの一言に尽きる。
祭鱧求めて店の奥の奥
これも個人的に大変、評価している作品。
京都人ならではである、店の情景も目に浮かぶ。
物事を観察し、切り取る着眼点が見事な作品。
個人的には「海いろを目にとどめをり」よりも、こちらの作品の方が好みである。
俳句はまず人品ありき、である。
「森」俳句会はさらに充実した句会となった。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
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大森健司

2017年6月句会報告

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 短夜(明易し)、鮎

うすものや先に暮れたる尾骶骨(びていこつ)
大森健司
創世記七日目の明けやすきかな
菅城昌三
若鮎や人魚の型(けい)に横たはる
西川輝美
短夜の線路は西へと続きをり
速水房男
短夜や午前三時のスキール音
河本かおり
ズブロッカ短き夜を継ぎ足しぬ
武田誠
薄まった氷の底の水中花
松浦美菜子
白き靴夜に汚されゐたるかな
山本孝史
薔薇剪つて週末残る余白かな
池上加奈子
職退いて身のかるがると冷し汁
白川智子
短夜や人を待ちたる小さき灯
前川千枝
ハンカチを心の傷にあててをり
臼田はるか
愛憎の途方にくれし蛍の火
中谷翔
青き日の夜空を駆ける日向夏

冷めきつた鮎の苦味を玩(もてあそ)ぶ
柴田春雷

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、1の核心を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
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「森」MORI
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大森健司

2017年5月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 なし :袋回し 実施(下記参照)
風薫る天に祭りのあるごとし
大森健司
春ショール人に結び目あるでなし
菅城昌三
夕立ち来ていのちしづかに洗ひけり
西川輝美
ひとり行く青野青野の桃源郷
速水房男
夕立のヒリヒリと恋はじまりぬ
河本かおり
万緑の出口違へてゐたりけり
武田誠
夏の月急いで煙草消さないで
松浦美菜子
母の日や昨日の雨の音を聞く
山本孝史
傷癒えぬまま慟哭の花菖蒲
池上加奈子
行く春や電気ケトルの沸き立ちぬ
白川智子
葉桜や昨日のスープ温める
前川千枝
行く春の光と影が交差する
臼田はるか
新緑や新居は海の見える丘
中谷翔
君といる苺畑よ永遠に Strawberry Fields forever

獅子眠る牡丹(ぼうたん)に陽の寄る辺(へ)なし
柴田春雷

袋回し(ふくろまわし)】
今月は全句会で袋回しを開催した。
袋回しとはベテランの俳人が集まって行なう、いわばゲームのようなもので、封筒に「季語」「単語」をひとつ書き、作品を詠む。
又そこから新しい「季語」「単語」をまた封筒に書き足し、それに基づいて、短冊に新しい俳句を書いて回すというなかなか高度な俳句の遊びである。
制限時間を決め、その間は何句出しても良い。
そのあとで普段通り、清記をして、披講を行なう。
勿論、即興俳句である。
ゆえにまれに名句が生まれることもあれば、駄作も多いが、それもまた遊び。
俳句は本来、こういった人との交わりの中で遊ぶものであり、それが俳句が「座の文芸」と言われる所以でもある。
このように俳句には様々な形式の遊びがある。

春ショール人に結び目あるでなし
菅城昌三
「森」中央支部での特選。
まず、この作品の措辞「人に結び目あるでなし」に大変感銘を受けた。
人の結び目とは一体なんなのか。
それは社会の柵、縁、親子関係、様々な想像をすることが出来る。
繰り返し述べているように、
①イメージの力
②感性の力
これは優れた作品には欠かせない。
尚、春ショールとは本来、女性用のショールであるが、現代では男性がすることも少なくない。
また薄手で、春らしくパステルカラーや薄い色のものが好まれている。
春ショールが風で飛ばされない様、軽く結んでも解けてしまう感じが、繋ぎ止められない何かを物語っているようにも感じ得る。
ここにこの作品の面白さ、がある。
人の心は移ろいやすい。
ともかく人の心も縛ることが出来ず、うっかり目を離すと離れてしまう危うさが春と非常にマッチングしている。絶妙な作品。

夕立ち来ていのちしづかに洗ひけり
西川輝美
「森」中央支部での特選。
これは私大森健司および角川春樹氏へのオマージュと思われる。
一流と言われる芸術家は、まず先人の絵の具の重ね方やデッサン、ミュージシャンならビートルズなどのコピーをして、コード進行を紐解いていき、噛み砕くところからスタートする。
そう言った意味では、この「夕立ち」の作品は当然、特選に値する。
その先に本人のオリジナリティが生まれるか、否か、分岐するのである。
輝美の「森」句会での存在は大きい。
誘われてメインでなく入会した輝美の事は、結社「森」顧問、大御所脚本家の鎌田敏夫先生も認めて下さっている。
この作品では本来、負けず嫌いの西川輝美が也(なり)を潜めている。
もっともがいている西川輝美の等身大の作品に出逢いたい。
今の輝美ならそれは可能であろう。
湯豆腐やいのちの果てのうすあかり 久保田万太郎
屠蘇(とそ)めくや短くなりしいのちの緒 森澄雄
年ゆくや天につながるいのちの緒 角川春樹

ひとり行く青野青野の桃源郷
速水房男
「森」中央支部での秀逸。
「青野青野」のリフレインがとても効いている。
その先にあるのは希望なのか絶望なのか。
詩歌の根源は、寂寥(せきりょう)感にある。
現代の数多くの歌人、俳人の中ででこれを心底理解しているのは、数える程しかいないであろう。
心境としてはこの作品に近い。
分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火
素晴らしいの一言に尽きる。

夕立やヒリヒリと恋始まりぬ
河本かおり
「森」中央支部秀逸。
この句の作者の個性は「ヒリヒリと」にある。
決して安穏な恋ではないのである。
季語の「夕立」もそれを決して殺していない。
河本かおりの作品の良さは、良い意味での不安定さ、にあるのである。
こちらも袋回しの席題「夕立」からの即吟。

夏の月急いで煙草消さないで
松浦美菜子
「森」祇園支部秀逸。
男が急いで煙草を消す模様。
それは、次に何処かへ向かうことを意味する。
この作者は女性であることから、もう少しの間側に居て欲しい、もしくは相手が長居をしたくないの両面から考えられる。
ぽっかり浮かんだ「夏の月」が変わらず、上空に存在している。
対比が非常に面白く、実に松浦美菜子らしい作品。

君といる苺畑よ永遠に

「森」句会特選。
前説に「Strawberry Fields forever 」とある。
勿論、ビートルズである。
ビートルズのサイケデリック期における1967年のジョンレノンによる、傑作作品。
普通なら、「君といる」というと甘くなりがちであるが、これはしっかりと詩として昇華されている。ビートルズの歌詞にもあるように、苺畑=ストロベリーフィールズが良くも切ない作品。
今の世代ではなく、リアルタイムに聴いていた作者なら当然歌詞の取り方は異なる。
一見この歌詞は、歌詞そのままであるという意見もあるかも知れない、だが、変に捏ねくりまわす事よりも、ストレートに歌詞をそのまま引用した作者の純粋さに惹かれる。
句に説得力が出てくる。
苺畑よ 永遠に、、、これは作者の寂寥感の塊でもある。
詩の根源は、つまり寂寥感にあるのである。

獅子眠る牡丹に陽の寄る辺なし
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
これは、勿論「唐獅子牡丹」に由来する。
この話を知らなければ、この句の面白さは全く理解できない。
百獣の王の獅子の天敵は内臓を食い破る虫であると、言われている。しかし、牡丹の蜜がその虫を殺すことから、獅子は牡丹の下で安心して眠るというものである。
牡丹がつまり、獅子を守ってくれるのである。
ここで、この句の焦点は「牡丹(ぼうたん)」にある。では、牡丹はどうなのか?
作者は「陽の寄る辺なし」と言い切っている。
つまり、牡丹には守ってくれるものがないのではないのか、というアンチテーゼに面白味の妙がある。
人に置き換えてもいい。
安住という問題は現代人においても、最も大切なテーマであると言える。
観念的であるか、どうか、好きか嫌いかは詠み手に委ねられる。
私の処女句集「あるべきものが…」においても、角川春樹氏と吉田鴻司氏、増成栗人氏との間で以下の俳句作品が、観念的かどうか論争になった。
葱きざむ身よりこぼるるものもなし 大森健司


俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、1の核心を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
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大森健司

2017年4月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題(都踊り、蝶、朧
初蝶の眉目(びもく)しづかに暮れゆけり
大森健司
春眠の覚めて花より軽(かろ)きかな
菅城昌三
都をどり老妓がひとつ手を打てり
西川輝美
蝶舞ひて湖に青さの戻りけり
速水房男
袂(たもと)より都をどりの風生まる
河本かおり
かぐや姫朧月夜に迷ひけり
武田誠
帰り道遠回りする朧かな
松浦美菜子
エデンより蝶の記憶のもぎとらる
山本孝史
ダイヤルを押す手をはばむ黄砂かな
池上加奈子
在りし日の家族の庭に蝶きたり
白川智子
待ちわびて都をどりの席も無く
前川千枝
木蓮や白の白さに耐えきれず
臼田はるか
春ひとつ線路の岸に見つけたり
中谷翔
白百合や愛していると言ってくれ

まな板の鯉をながめて暮れかぬる
柴田春雷

春眠の覚めて花より軽きかな
菅城昌三
「森」中央支部での特選。
山本健吉の「俳句は挨拶なり、即興なり、滑稽なり」という説を例えて軸にすれば、それに寄り沿った作品といえる。
昌三にしては珍しい創作であるように思われる。
まるで「呟き」のように詠んでいるからである。
かの角川源義先生の直弟子であった、吉田鴻司氏は、
暮るるとは雨の御室の桜かな
と、京都、御室仁和寺にて即吟で詠まれた。
また、俳人・森澄雄氏は、
春眠の大き国よりかへりきし
と「春眠」を詠まれている。
これらは大いなる遊びに基づいた「つぶやきに似た俳句」であって、私大森健司や角川春樹氏のような「ドラマトゥイギーな俳句」とは対極なるものである。
しかし、俳句なるものを構成させるものが中心をなすのが、次の二つであるとすれば、共に源流は同じであると言える。
①イメージの力
②感性の力
尚且つ、これらが「自然体」であることが最も重要である。
詩歌の根源は全てこれに尽きる。
同時期に以下の作品もあるが、こちらはやや作為が見えてしまっている。
落城や真昼を過ぎし白き蝶 昌三
それに比べて、「春眠」の作品は誰もが感じ得る思いを平明にさらりと詠みあげている。
特選に値する一句である。

袂より都をどりの風生まる
河本かおり
「森」中央支部特選。
袂(たもと)よりの、起こしがまず巧みである。
また兼題の「都をどり」であるが中七にこれをもってきて、「風生まる」とさらりと詠みあげた平明さも良い。
都をどりは、よいやさァから始まる舞妓たちの踊りは未熟だが、これからを思わせる初々しい春の躍動感がしっかりと表現されている。
そういった意味では申し分のない作品。
都をどりうしろに水の流れけり 大森健司
こちらは京都「都をどり」の叙情性を詠んだものである。

かぐや姫朧月夜に迷ひけり
武田誠
「森」祇園支部での特選。
これは虚構に遊んだ作品。
アニメーションのようでもある。
月が恋しい筈のかぐや姫が朧月夜に迷い込むということはどういった状態なのか。
ある意味、現代の世相を反映するかぐや姫像とも言える。
違う選択肢もあることによって、ラビリンスが生まれたというユーモアのある作品となった。

ダイヤルを押す手をはばむ黄砂かな
池上加奈子
「森」祇園支部秀逸。
今年はとにかく中国からの黄砂が酷い。
しかし、これは「黄砂」を言い訳にしているのであって、ダイヤルを押す手をはばむのは自分自身の心の中に在る。
女性ならではの作品であるとも言える。
ダイヤルでかけようとした相手は勿論、意中の人物であろう、と思われる。
季語の「黄砂」を巧く取り入れた現代的な作品に仕上がっている。

白百合や愛していると言ってくれ

私大森健司の俳句、
人込みにふと立ち止まる九月かな
に惹かれて「森」俳句会に入会してくださった、とのことである。
ここでは敢えて自句自解はしないが、この作品は20代に行き場のない、また自分だけが鮮明である葛藤を詠んだもの。
次の作品と、対になっている。
秋のひる誰もが通りすぎてゆく 大森健司
「白百合」の鑑賞に戻るが、まず浮かんだのは1995年の名作ドラマ「愛していると言ってくれ」である。耳の不自由な豊川悦司演じる、青年画家榊晃次と眩しいほどに明るく真っ直ぐな常盤貴子演じる水野紘子の物語である。影と壁のある榊晃司は水野紘子と出逢い、戸惑いながらも惹かれてゆく、、。
この作品の「白百合」は二人の壁の象徴であると感じる。「白百合」は毒々しい一面と華を合わせ持つ薔薇とはまた異なる花でもある。
凛として、静かにただ、そこに存在している。
白百合であるが故に作者の叫びが感じられるのである。
これが季語が薔薇では何の面白味もない。
又、他の作品に、
悲しけりゃ消えちまえよ朧月
春浅し極楽浄土に積もる雪

があり、共に特選。
「春浅し」は大変感銘を受けた。
「春浅し」と「極楽浄土」「雪」の取り合わせが絶妙。
何より作品すべてが【自然体】なのが良い。
俳句は自立している文学。
突き詰めて、また自然体であることが俳句の原点回帰、である。
これから更に期待したい魂の澄んだ「森」俳句会の会員である。

まな板の鯉をながめて暮れかぬる
柴田春雷
「森」洛中支部特選。
「暮れかぬる」は暮れかねる、つまり「遅日」のことを指す。
また板の鯉を見つめて夕闇に立ち尽くす作者の映像が浮かぶ。
また日は暮れかけて、まな板の鯉は観念しているのにも関わらず、作者の中には葛藤が感じられる。
映像の復元もあり、リズムも良い、自己の投影もあり、良い作品と言える。
観念した「また板の鯉をながめて」包丁を手に立ち尽くす姿は少しの危険性も孕んでいて、詠み手の自由であるが、面白味がある。


俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、1の核心を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

[追記]
現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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