2018年新年句会・新年会報告

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 淑気(しゅくき)、初写真、人日(じんじつ)

背の骨や淑気のなかを水はしる
大森健司
初夢の人であること忘じをり
菅城昌三
この生も輪廻の途中粥柱(かゆばしら)
西川輝美
夕波や音なく過ぐる去年今年
速水房男
傘の内われの世界の淑気かな
河本かおり
背ナに荷を抱へてきたり去年今年
武田誠
碧い目の家族増えるや初写真
松浦美菜子
人日の幾度もタイを直すかな
山本孝史
亡き母の着物纏いて初写真
池上加奈子
寝てよりの千両の雪払ひたる
白川智子
寂しさ来苗字変わりし賀状かな
前川千枝
人日や毛先を少しカールして
臼田はるか
冬の雲過ぎゆき枕高くせり
中谷翔
赤んぼの掌(てのひら)初日掬いをり
上田苑江
なずな摘む未熟な我を恥じながら
栗山千教
啜り込む蕎麦の香や春隣

美酒(うまさけ)にはや骨染めて去年今年
安部淑子
出会い期し人日までのもちを食べ
村田晃嗣
元日の仄(ほの)かな匂い顔洗う
石田穂實
抜き襟のうなじの白き淑気かな
柴田春雷

赤んぼの掌(てのひら)初日掬いをり
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
赤んぼとは、生まれて間もない子供。
または比喩的に、幼稚、世間知らずの人のさまにもいう。ー広辞苑【赤ん坊】ー
自らの出産と、その子供が成人して出産する様を見届ける眼とでは視点が当然違ってきて、この作品は後者かと思われる。
いわゆる俯瞰の句。
だからこそ想像が膨らむ。
混沌とした日本を取り巻く環境下で、未来への不安は広がるばかりである。
生まれたての赤子の無垢な眼に初日はどのようにうつっているのだろうか。
二世代前の人間から見た若者の幼稚さは憂いしかないかもしれないが、わずかな希望を初日に見出そうとしているのは誰なのか、陰と陽を絶妙に織り交ぜ、ともすれば立ち位置までもを見失いそうになりそうな、魅力的な作品である。
文学、藝術において、勿論俳句において正解はない。
後は詠み手の解釈に委ねる。

なずな摘む未熟な我を恥じながら
栗山千教
「森」中央支部秀逸。
春の七草とは、正月七日に摘み採って七草粥に入れる若菜。
芹(せり)薺(なずな)御形(ごぎょう)蘩蔞(はこべら)仏座(ほとけのざ)菘(すずな)蘿蔔(すずしろ)の七種。ー広辞苑よりー
近年七草を摘み揃えるのは困難であり、スーパーで山積みされたパック売りのセットを買うという、なんとも情緒の無い人日を迎えるのが、当たり前のようになってきた。
この句の出句により、正月七日に七種の新菜を奉った宮中行事の、無病息災という本来の意義をはたと気付かされ、まさしく淑気に通じる思いである。
なずなの開花時期は一般的に松の内を過ぎた頃であり、当然食卓に並ぶなずなには花は見受けられない。
鑑賞されることなく、正月休み食べ過ぎた、胃腸を労わる為に、無造作に摘み取られてゆく若菜に対して、未熟な我と謙遜しつつもまた、食す作者の手法は見事と言えよう。

啜り込む蕎麦の香や春隣

「森」名古屋支部特選。
蕎麦の香りはよくほのかと表現されるが、実際言葉に表すのは難しい。
蕎麦の香りを楽しむ食べ方は啜るのである。
これが昨今のミシュランブームで物議を醸し出したのだが、ワインを口に含む時と同じ様に、空気に触れさせることで香りが立つからである。
蕎麦を詠んだ歌人は多く、また文豪と言われた作家には蕎麦好きが多い。
季語の「春隣」がしっかりと恩寵をなしており、作品が平明で素朴なのがこの良さである。

美酒(うまさけ)にはや骨染めて去年今年
安部淑子
「森」名古屋支部特選。
美酒(うまざけ)とは万葉時代よく用いられた枕詞である。
作者を酔わすのは日本酒であると、「はや骨染めて」から想像される。
これがシャンパンやワインでは「はや骨染めて」が活きてこない。
ほろ酔いで頬にほんのり赤みが刺すのは実に色っぽい光景であり、見えるはずのない骨に転換したのは流石のひと言に尽きる。王翰の涼州詩の始めを挙げる。
葡萄美酒 夜光杯
美酒とは勝利の酒、即ち戦をくぐり抜けた男の特権である。その男性的視点を取り入れつつ、女性の魅力を存分にこの作品は昇華されている。
季語の「去年今年」も決してその邪魔をしていない。
今月の新年句会の中で最も感銘を受けた作品。

出会い期し人日までの餅を食べ
村田晃嗣
「森」中央支部秀逸。
山本健吉氏の言葉を用いると、「俳句は挨拶なり、即興なり、滑稽なり」。
この作者の作品はその全てを兼ね備えている。
その意味でも兼題の「人日」の中で最も優れた作品であると言える。
五節句のうち、人日は挨拶の日であり、重要な意味を持つ日だからこそ、この句が光る。
又、「出会い期し」の「期し」が「来し」ではないことにも、作者の冷静で細やかな視点が、作品を 一期一会 にまで転換させている。
人々が気合い十分、むしろ空回りの中、飄々と一人餅を食す作者の滑稽さ、ユーモアがこの句には溢れ、「出会い期し」によって可笑しくも明るく転換されている。この句は「出会い期し」で、文法として一旦切れている。
挨拶句として、全ての作品を凌ぐ作品であるが、奇しくも句会で採ったのは私ひとりであった。
この句を何度も舌で転がして味わって頂きたい。

元日の仄かな匂い顔洗う
石田穂實
「森」名古屋支部特選。
今年度より「森」俳句会に入会された元柳人。
いきなりの特選には驚かされた。
自然に囲まれ花を愛すると見受けられる句が多い。
穏やかな日常であっても忘れない鋭い観察力から生まれたこの作品には、素晴らしい感動が表現されている。
今年の冬は多くの雪に見舞われ特に寒かった。
作者が顔を洗った水はさぞ冷たかったに違いない。身の引き締まる思いだっただろう。
ここにも、淑気が感じられる。
その中で「仄かな匂い」の水で、日常的行為である「顔洗う」という行為が特別に感じられて、非常に良い。
その成功の鍵は季語である「元日」にある。
元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介
同時作として、
真夜中の枕が聞いた冬の雨
があり、こちらも秀吟。
これからに期待したいひとりである。

抜き襟のうなじの白き淑気かな
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
ファッションの流行は時として疑問を投げかけたくなるもので、昨年は女性の間で抜き襟のシャツが大流行した。
正直、肌をさらし過ぎて色気の解釈を間違えている方が多いのではないかと思うのだが、抜き襟とは抜き衣紋、つまりは着物の襟が髷(まげ)の鬢付け(びんづけ)油で汚れない様に、襟を後ろに少し引いた着付けの仕方である。
そこに白粉を塗る舞妓の姿は可憐であり、大人になる前特有の、成熟しきっていない色気を感じる。
そこには凛とした女性本来の奥ゆかしい姿が存在する。
洗練された、兼題の「淑気」を用いた秀吟である。

無事に「森俳句会」新年句会及び新年会を開催することが出来たのもひとえに皆様のお陰である。
益々の句会の充実には感無量である。
今回はベテラン勢よりも中堅や新人の方の作品が優れていた。
勿論、俳句は生き方そのものなのでバイオリズムがある。
良くないときは良くない作品を出すべきなのである。句座にその時、その瞬間の自分を曝け出すことに意義がある。
そして何より、継続が大切となる。
今年も私自身、更に努力を務め、句座が刺激となり、安堵となるよう邁進していく所存である。
皆の日々が観察と感動の繰り返しとなるように、少しでもこの森俳句会が力になれば幸いである。
参考までに私、大森健司の新年俳句作品を幾つか列挙する。
背の骨や淑気のなかを水はしる
精髄に筆おろしゐる淑気かな
白絹のつめたさ纏(まと)ふ淑気かな
ひとの日やひとの貌見て寸評す
空に未だにほふものなし初写真
ゆったりと寒水ながる身の内外(うちと)
血の音のしづまるをまつ手套(てとう)かな

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
スポンサーサイト

2017年12月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 数へ日、咳(せき、しはぶく)、枯野

わが生や枯野に雲を泳がせし
大森健司
数へ日や煙草をもらひ火をもらひ
菅城昌三
ひきこもる息が不貞寝の蒲団かな
西川輝美
数へ日やふたつの虹を観てをりぬ
速水房男
北窓を塞ぐ寂しさ来ぬよふに
河本かおり
大仏の下にしはぶき落しけり
武田誠
しはぶきや卸金する夜明け前
松浦美菜子
枯野ゆく寄り添ふだけの傘回し
山本孝史
もがくほど跳ねる氷魚の美(は)しきけれ
池上加奈子
シビ鮪頬張るをんな盛りかな
白川智子
北窓を塞ぎて我を封印す
前川千枝
山茶花や過ぎし面影重ねらる
臼田はるか
冬の雲過ぎゆき枕高くせり
中谷翔
咳もまた客のうちなりローカル線
上田苑江
咳込んでおのれの本性悟りけり
栗山千教
冬銀河彼方に汽笛聞こえけり

漲(みなぎ)れる光や知多の大枯野
しのぶ
母逝きて数え日寂し墨をする
村田晃嗣
咳ひとつ隔つ襖の重さかな
柴田春雷

数へ日やふたつの虹を観てをりぬ
速水房男
「森」中央支部秀逸。
これは季語の「数へ日」によって、「ふたつの虹」の意味が幾つにもとれる。
これは実景だと感じる。
私自身も近い日にふたつの虹を観たからである。
しかし、これが実景であっても、虚像であってもその立ち位置は変化しない。
年を終えるに当たって小さな神様からのプレゼントだと思いたい。
心の温まる作品。

北窓を塞ぐ寂しさ来ぬよふに河本かおり
「森」中央支部特選。
この作品の季語は勿論、「北窓を塞ぐ」。
この作品は「北窓を塞ぐ」と「寂しさ」の間で一旦、「切れ」ている。
北窓は本来、寒さ予防の為に塞ぐものだが、それをダイレクトに「寂しさ来ぬよふに」と言い切った感性は見事である。
こういった例句は歳時記にはない。
北窓を塞ぐの例句は以下の通りである。
北窓を塞ぎて今日の午睡かな 永井荷風
北窓をふさぎし鐘のきこえけり 久保田万太郎
絣地の一枚北窓塞ぎ足す 中村草田男
他に、
「人来れば空咳をする老婆かな」があるが、これも非常に面白い。
空咳をし、独り言をぶつぶつ言っている老婆の姿が目に浮かぶようである。
思わず選句しながら、笑ってしまった。
ユーモラスな作品。

咳もまた客のうちなりローカル線
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
この作品はあたたかく、躍動感に満ちている。
客も疎らな電車の中で、「咳もまた」という措辞によって、明るくのんびりとした車内の映像が復元できる。
しっかりとした観察に以って生まれた作品。
咳という「陰」の存在を、見事に「陽」に転換した素晴らしい作品。
これはひとえに、作者の心の豊かさ、である。

咳込んでおのれの本性悟りけり
栗山千教
「森」中央支部秀逸。
一見穏やかな作者であるが、別の顔が見えた時に作者の面白さがそこに存在する。
おのれの本性とは、余り知りたくないものである。
「本性悟りけり」に恐怖に似た感情を覚える。
その感情を淡々と受け流しているところに、ひと筋縄では行かない作者の生き様を垣間見ることが出来る。
いつまでも興味が続く作品である。
色々なことを詠み手に連想させる面白い作品である。

漲(みなぎ)れる光や知多の大枯野
しのぶ
「森」名古屋支部特選。
この作品はまず、スケールが大きい。
「知多の大枯野」という「陰・褻」の固有名詞に対して、「陽・晴」である「漲れる光」という措辞をダイナミックに持ってきたことによって、成功をもたらした作品。
「光や」、で一旦「切れ」てをり、そこから場面転換が為されている。
このような大胆な転換をする例句は観たことがない。
素晴らしい、の一言に尽きる。
また、他に同時作に、
ブルースや咳きひとつ夜を融(と)く
紅差せば何かが呼ばる冬鏡

があり、共に秀吟。

母逝きて数え日寂し墨をする
村田晃嗣
個人レッスンにて特選。
村田晃嗣氏には事前に季語集と幾つかの句集をお渡ししただけだが、この処女作品には驚かされた。
年の瀬の慌ただしい中、母を見送った男の背中はピンと伸びている。
悲しみを受け止め、昇華させたのか、それともこらえているのかはわからないが、身を持ち直している姿は凛として美しい。
今年もあとわずかという頃は、なんとなく静かで物悲しくもあるが、墨をすり、己を見つめ直すことで、新年に向けてリセットされている。希望の光が射しているようである。
この作品は、俳句の基本でもある以下の三つが踏まえられている。
①映像の復元
②リズムの良さ
③自己投影
また、同時作に他の作品として、
「そこかしこ咳の花咲く大講堂」「鏡中に年行く顔に眉しかむ」がある。
どちらの句もウィットに富んでいる為か、何故か笑みがこぼれる。
「咳の花咲く」という措辞が、授業に集中しきれない生徒を俯瞰的に見る姿に、ある種の愛情が感じられる作品。
「鏡中に年行く顔に眉しかむ」も非常に面白い作品。どこか諧謔的でもある。
「年行く」という季語も絶妙で良い。
鏡の中に写る男の姿に眉をしかめるという行為は非常にウィットに富んだ作品である。
ウィットは、ウィットーウィズダム(知恵)に由来する。
詩の根源とも言えるこの、ウィットを村田晃嗣氏は既に掴んでいる。
心の豊かさは、俳句の豊かさに比例する。
心の豊かさ、とは観察することによる。
心を豊かに、豊かな俳句を望む。


俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司

村田晃嗣氏 大森健司「森」俳句会

kojimurata
村田晃嗣氏 *御本人の承諾を得て、御写真掲載させて頂いております

今年は「森」俳句会が大きく飛躍した一年でした。
ブログを通して問い合わせが増え、「森」俳句会の結束力がより強固なものになりました。
ブログを拝読されている皆様、いつも応援有難うございます。
合縁奇縁、人と人とが互いに気心が合うかどうかは皆、因縁という不思議な力によるものです。
この度、我が母校同志社の大教授、そして数々の番組の論客でもあられる 国際政治学者の村田晃嗣氏が「森」俳句会の扉を叩いて下さいました。
動であり静な人。
村田晃嗣氏はこの一言に尽きます。
きっとテレビで御覧になった方々は華やかな風貌と切れのある弁舌に大胆なイメージだけが先行すると思いますが、ご一緒にお酒を酌み交わし、芸術話に花を咲かせ、至極、物腰柔らかな氏の振舞いに「静」の美学を感じました。
茶道、能、狂言、俳句など日本の芸事はすべて「晴と褻」の世界です。
己から脱却し、己を俯瞰し、ただひとつのことを深く掘り下げていくことです。
村田晃嗣氏の秀麗な俳句作品はまた次回掲載させていただきますので、楽しみにお待ち下さい。

この現代社会に於いて、SNSの普及もあり、他者との関わりがより難しくなってきました。
人からの評価に過敏になり、理解されたいという思いはかえって、生きづらくします。
なにかひとつが琴線に触れれば良いのです。
共鳴し、また他者を尊重し、御縁を大切にすることです。
森俳句会の「座」を通して、己を俯瞰し、皆様の気持ちが明るく、軽くなって下されば代表として幸いです。

「森」俳句会 代表 大森健司

2017年11月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 雁、冷まじ、木の実

自堕落によるがまた来て新生姜
大森健司
木の実雨父とはなれず手ぶらなる
菅城昌三
糸いつぽん空より垂れて秋気澄む
西川輝美
香をたひて寂しさだけの十三夜
速水房男
もやもやと秋思の形(なり)の帽子脱ぐ
河本かおり
冷まじくきのふの影を残しゐる
武田誠
豪奢(ごうしゃ)なる女三人すさまじき
松浦美菜子
木の実降る夜をまとひて彷徨す
山本孝史
泣きやめば夢が残りし夜長かな
池上加奈子
雁の列見上ぐるばかり幾度かな
白川智子
手の木の実腕を掴まれ転がりぬ
前川千枝
わが胸の木の実欲しいと神のいふ
臼田はるか
冷まじや地球儀回しゐたりける
中谷翔
列成して雁落日の朱に入りぬ
上田苑江
雁過ぐる百済の風を偲(しの)びをり
栗山千教
宵闇や機械仕掛けの人の群れ

誇らかに乳房行き交う秋の湯屋
しのぶ
雁(かりがね)や女の爪の伸びてをり
柴田春雷

木の実雨父とはなれず手ぶらなる
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この句から見ても、作者の立ち位置はこれまでとはかなり異なる。
これまでの昌三の「サラリーマン俳句」から脱却し、男として二本足で立ち突き進む意思表明が感じられる。
先月の昌三の作品は以下である。
藤袴ひとり遊びの果てに咲く
これは「サラリーマン俳句」からの脱却である。
木の実雨父とはなれず手ぶらなる
には、そこから多少の自虐を含む独り身の男としての決別と、解釈しても良いのではなかろうか。
この作品は文句なしの特選であり、自分と向き合った新たな昌三の代表作にもなると思っている。
今月の中でも特に素晴らしく、抜きん出た作品である。
彼のこれからの活動が楽しみである。
同時作として、
雁渡し奥歯の奥を噛みしむる

もやもやと秋思の形(なり)の帽子脱ぐ
河本かおり
「森」中央支部秀逸。
この作品は季語の「秋思」が大変効いている。
これから寒くなる候に、帽子を脱ぐという作者の潔ぎよさは、感慨深いものがある。
作者は大病を患い、それに打ち勝っている。
また、「もやとやと」という措辞に凝縮される真の部分の作者のナイーヴさが愛おしく思える。
助けて欲しいと縋ってくる女性よりも、こういった芯のある凛とした女性のふと見える脆さの瞬間の方が、愛おしい。
又、「もやとやと」の措辞と、「秋思の形(なり)の帽子脱ぐ」との取り合わせの妙も見事である。
これは本来ならば、特選に匹敵する作品であるが、今月は句会のレベルが余りに高すぎたと言ってよい。

泣きやめば夢が残りし夜長かな
池上加奈子
「森」祇園支部秀逸。
これは正に女性的な部分が俳句によって昇華されている。
秋の「夜長」になにかがあって、作者は哀しみに打ちひしがれたのであろう。
しかし、泣くことでそれを一旦受け入れ、「夢」に変える作業は、女性ならではの逞しさ、しなやかさ他ならない。
またさらりと読んでいて、心地よい作品。

列成して雁落日の朱に入りぬ
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
この作品は骨格がしっかりと為された作品。
映像の復元も、見事である。
また、「レツナシテカリラクジツノシュニイリヌ」という言葉のリズムも視覚の漢字で見るより、舌で転がしてみると、遥かに良い。
スケールの大きな俯瞰的作品。
列を成して、雁が落日の朱に染まるのが、果たして肯定なのか、否定なのか、静観なのかは詠み手に委ねられる。
良くも詠み手に想像を与える作品。

雁過ぐる百済の風を偲びをり
栗山千教
「森」中央支部秀逸。
この「百済」はいにしえを思っての百済なのか、私見としての百済なのか。
私は前者だと思いたい。
又、過去に俳句を嗜まれているだけあって「雁(かりがね)や」ではなく、「雁過ぐる」といった細やかな表現も含めて、俳句の骨格が為されている。

宵闇や機械仕掛けの人の群れ

「森」名古屋支部特選。
この作品には、前書きに「ブレードランナー」とある。勿論新作の「ブレードランナー2049」の方である。
私はこの映画には興味を持ったが、観ていないので申し訳ない。
ただ、作者の映画に対する刺激は充分に伝わってきた。
まず「機械仕掛けの人の群れ」という措辞が非常に良い。
季語の「宵闇」も決してそれを邪魔していない。「宵闇」とは、十五夜の後の16日から20日くらいまでの月が出る間の闇を指す。その暗さはいっそう深々として、秋が深まってゆくという感慨がある。
また「宵闇」でこういった乾いた抒情詩の俳句は此れまで詠みあげられていない。
根本に流れるのは、私、大森健司俳句作品の「秋のひる誰もが通り過ぎてゆく」「人込みにふと立ち止まる九月かな」「炎天や生き人形が家を出る」と同じと言っても過言ではない。
作者の過去の作品も拝見したが、最近の作品に垣間見る事の出来る知識欲と吸収には目を見張るものがある。作者の過渡期に出会えた事を幸せに思っている。

誇らかに乳房行き交う秋の湯屋
しのぶ
「森」名古屋支部特選。
作者は先月から「森」俳句会に入会された新人であるが、既に俳句の骨格が為されていることには今月も驚いた。
まず映像の復元が出来ることの作品であるが、「誇らかに」という表現によって大らかな女性の生命力と西洋の裸婦像を彷彿とさせる。
またともすれば、男性女性シンボルを作品のモチーフに選ぶには難しいが、作者は「人間賛歌」の域に達しているので、格調がある。
素晴らしくも飽きのこない作品。
同時作として、
無花果やわが胎内のしづもりて
がある。
こちらも非常に鋭い感性とともに淡々と「人間賛美」をしていて良い。

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司

2017年10月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 月、梨、藤袴(大原野吟行実施)

藤袴いくつの声を忘れきし
大森健司
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
菅城昌三
指で追ふ活版印刷色鳥来
西川輝美
雨音の湖まで続く秋の鮎
速水房男
鵲(かささぎ)の落とした切符銀河行き
河本かおり
藤袴抜け殻に似た昼を抱く
武田誠
かのひとの残り香を踏む藤袴
松浦美菜子
名月や手に乗るほどの靴のあり
山本孝史
蜘蛛の囲に月のでられぬ都会かな
池上加奈子
いにしへの比叡を見るや藤袴
白川智子
梨むくや夕べの喧嘩置き去りに
前川千枝
手折りてはためらうばかり藤袴
臼田はるか
月の夜ねこの森にはかえれない
中谷翔
何もかもうまくいくわと秋日傘

大陸の男(ひと)の香りや巴里の秋
しのぶ
恥じらひて化粧落とせし藤袴
柴田春雷

藤袴ひとりあそびの果てに咲く
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この句の成功は作者の存在せぬ立ち位置に存在する。
「ひとりあそびの果てに咲く」の措辞が、非常に幻想的で幽玄な世界である。
この不安定な措辞によって、季語である「藤袴」の様が、逆に有り有りとリアルに浮かび上がる。
サラリーマン作品の多い作者の中では珍しい手法である。
今月は、「藤袴吟行」として、大原野に向かったが、その中でも特に素晴らしかった即吟である。
流石、名だたる俳人達と句座を囲み空気感を体感しているだけに、俳句の系譜は深い。
感銘に値する作品。
私、大森健司の「藤袴吟行」の俳句作品は以下である。
藤袴いくつの声を忘れきし
大原女の背なも暮れたり藤袴 大森健司
参考にして頂きたい。

指で追ふ活版印刷色鳥来
西川輝美
「森」中央支部秀逸。
この作品はとにかくリズムが全て、である。
「活版印刷色鳥来ーかっぱんいんさついろどりく」と、非常に心地よいリズムで収められている。
また「指で追ふ」と具体的な作者の動きを入れたことによってより映像が復元出来、また「色鳥来」で色彩感が豊かでもある。
少女趣味とも言える輝美の作品は分かり易く、女性人気も高い。
これはこれで良い。
色鳥とは秋に渡って来る小鳥の総称であり、花鶏(あとり)、鶸(ひわ)、尉鶲(じょうびたき)など色彩の美し鳥が多いことから色鳥と呼ばれる。
そして、色鳥には以下の例句がある。
参考にして頂きたい。
色鳥や森は神話の泉抱く 宮下翠舟
色鳥の来てをり晴のつづきをり 森澄雄
雨の庭色鳥しばし映りゐし 中村汀女
色鳥や買物籠を手に持てば 鈴木真砂女

藤袴抜け殻に似た昼を抱く
武田誠
「森」祇園支部特選。
これも、「藤袴吟行」による作品。
乾いた叙情世界観がそこにある。
又、不思議と異性と無機質に肌を重ねても埋まらない寂しさの様なものを、その根底に感じさせる作品でもある。
輝美の彩りのある作品とは真逆のモノクロームの世界。
都会的な作品であり、季語の「藤袴」がそこに絶妙に位置している。
愛の渇きを彷彿とさせる作品。

月の夜ねこの森にはかえれない
中谷翔
「森」祇園支部特選。
この作品はアニメージュの良さである。
「ねこの森」とは一体どんな森であろうか。
詠み手に様々な想像を膨らませる完成された作品。
現代社会の生きにくさ、そのものを象徴しているようにも思える。
月の灯りをたよりに暗い森から出たのはいいが、かえって迷ってしまうというパラドックス。
作者はもはや道を見失っているかもしれない。
完成された大人になったのかもしれない。
この「ねこの森にはかえれない」というのは、かのユニークな谷山浩子の曲名であるが、それはさして問題ではない。
大人になると却って見えなくなる物は数多く存在する。
特選に値する一句である。
此れまでの作者の中で、代表作品とも言える。

大陸の男の香りや巴里の秋
しのぶ
作者は今月から「森」俳句会に入会された全くの新人。
しかし、短歌を既に嗜まれていて数々の受賞もされている女性である。
驚くべきことに「俳句の骨格」が既に為されている。
この作品はまず気品に満ち溢れていて、女性特有の巴里かぶれは少々鼻につくが、彼女の場合巴里は大変身近にある。
俳句とは言葉を自分の物にすることである。
饒舌でなくとも、自分の言葉を持ってしてこそ、俳句は自分の物になる。
又、「大陸の男(ひと)の香り」、この様な措辞は此れまで見たことがない。
ウィットにも満ち溢れた表現が素晴らしい。
実際にこの作品からは何故か、するはずが無いのに香りがしてくるのである。
「巴里の秋」の着地点も見事である。
文句なしの特選である。
他に感銘を受けた作品として、
ペディキュアの赤ゆらめきて秋湯殿
この作品も俳句の根本である、「晴と褻」「陽と陰」がしっかりと際立っている。
湯気でぼやけている筈の視界に飛び込んでくる強烈な赤。
これは、春・夏・冬ではなく、決定打はやはり秋である。
このまま鋭い感性と気品、骨格を維持して頂きたい。

恥じらひて化粧落とせし藤袴
柴田春雷
「森」洛中支部特選。
これも秋の野に咲く「藤袴」の本質を捉えている。
錦繍の秋も良いが、野ざらしの可憐な花を愛でるのも又格別である。
「恥じらひて化粧落とせし」の措辞が大変素晴らしい。
男性では決して描くことの出来ない世界観を持っている。
「恥じらひて化粧を落とす」という奥ゆかしさと虚飾を捨てて残る上品さが、季語の「藤袴」と絶妙にマッチングしている。
これも句歴は違えど、昌三の
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
に匹敵する作品である。
藤袴は準絶滅危惧種であり、現在京都市が再生プロジェクトに取り組んでいる。
万葉時代に歌人が愛でた藤袴というものを、俳句同様、後世に受け継ぎたいと願うばかりである。

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR