2017年4月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題(都踊り、蝶、朧)
初蝶の眉目(びもく)しづかに暮れゆけり
大森健司
春眠の覚めて花より軽(かろ)きかな
菅城昌三
都をどり老妓がひとつ手を打てり
西川輝美
蝶舞ひて湖に青さの戻りけり
速水房男
袂(たもと)より都をどりの風生まる
河本かおり
かぐや姫朧月夜に迷ひけり
武田誠
帰り道遠回りする朧かな
松浦美菜子
エデンより蝶の記憶のもぎとらる
山本孝史
ダイヤルを押す手をはばむ黄砂かな
池上加奈子
在りし日の家族の庭に蝶きたり
白川智子
待ちわびて都をどりの席も無く
前川千枝
木蓮や白の白さに耐えきれず
臼田はるか
春ひとつ線路の岸に見つけたり
中谷翔
白百合や愛していると言ってくれ

まな板の鯉をながめて暮れかぬる
柴田春雷

春眠の覚めて花より軽きかな
菅城昌三
「森」中央支部での特選。
山本健吉の「俳句は挨拶なり、即興なり、滑稽なり」という説を例えて軸にすれば、それに寄り沿った作品といえる。
昌三にしては珍しい創作であるように思われる。
まるで「呟き」のように詠んでいるからである。
かの角川源義先生の直弟子であった、吉田鴻司氏は、
暮るるとは雨の御室の桜かな
と、京都、御室仁和寺にて即吟で詠まれた。
また、俳人・森澄雄氏は、
春眠の大き国よりかへりきし
と「春眠」を詠まれている。
これらは大いなる遊びに基づいた「つぶやきに似た俳句」であって、私大森健司や角川春樹氏のような「ドラマトゥイギーな俳句」とは対極なるものである。
しかし、俳句なるものを構成させるものが中心をなすのが、次の二つであるとすれば、共に源流は同じであると言える。
①イメージの力
②感性の力
尚且つ、これらが「自然体」であることが最も重要である。
詩歌の根源は全てこれに尽きる。
同時期に以下の作品もあるが、こちらはやや作為が見えてしまっている。
落城や真昼を過ぎし白き蝶 昌三
それに比べて、「春眠」の作品は誰もが感じ得る思いを平明にさらりと詠みあげている。
特選に値する一句である。

袂より都をどりの風生まる
河本かおり
「森」中央支部特選。
袂(たもと)よりの、起こしがまず巧みである。
また兼題の「都をどり」であるが中七にこれをもってきて、「風生まる」とさらりと詠みあげた平明さも良い。
都をどりは、よいやさァから始まる舞妓たちの踊りは未熟だが、これからを思わせる初々しい春の躍動感がしっかりと表現されている。
そういった意味では申し分のない作品。
都をどりうしろに水の流れけり 大森健司
こちらは京都「都をどり」の叙情性を詠んだものである。

かぐや姫朧月夜に迷ひけり
武田誠
「森」祇園支部での特選。
これは虚構に遊んだ作品。
アニメーションのようでもある。
月が恋しい筈のかぐや姫が朧月夜に迷い込むということはどういった状態なのか。
ある意味、現代の世相を反映するかぐや姫像とも言える。
違う選択肢もあることによって、ラビリンスが生まれたというユーモアのある作品となった。

ダイヤルを押す手をはばむ黄砂かな
池上加奈子
「森」祇園支部秀逸。
今年はとにかく中国からの黄砂が酷い。
しかし、これは「黄砂」を言い訳にしているのであって、ダイヤルを押す手をはばむのは自分自身の心の中に在る。
女性ならではの作品であるとも言える。
ダイヤルでかけようとした相手は勿論、意中の人物であろう、と思われる。
季語の「黄砂」を巧く取り入れた現代的な作品に仕上がっている。

白百合や愛していると言ってくれ

私大森健司の俳句、
人込みにふと立ち止まる九月かな
に惹かれて「森」俳句会に入会してくださった、とのことである。
ここでは敢えて自句自解はしないが、この作品は20代に行き場のない、また自分だけが鮮明である葛藤を詠んだもの。
次の作品と、対になっている。
秋のひる誰もが通りすぎてゆく 大森健司
「白百合」の鑑賞に戻るが、まず浮かんだのは1995年の名作ドラマ「愛していると言ってくれ」である。耳の不自由な豊川悦司演じる、青年画家榊晃次と眩しいほどに明るく真っ直ぐな常盤貴子演じる水野紘子の物語である。影と壁のある榊晃司は水野紘子と出逢い、戸惑いながらも惹かれてゆく、、。
この作品の「白百合」は二人の壁の象徴であると感じる。「白百合」は毒々しい一面と華を合わせ持つ薔薇とはまた異なる花でもある。
凛として、静かにただ、そこに存在している。
白百合であるが故に作者の叫びが感じられるのである。
これが季語が薔薇では何の面白味もない。
又、他の作品に、
悲しけりゃ消えちまえよ朧月
春浅し極楽浄土に積もる雪

があり、共に特選。
「春浅し」は大変感銘を受けた。
「春浅し」と「極楽浄土」「雪」の取り合わせが絶妙。
何より作品すべてが【自然体】なのが良い。
俳句は自立している文学。
突き詰めて、また自然体であることが俳句の原点回帰、である。
これから更に期待したい魂の澄んだ「森」俳句会の会員である。

まな板の鯉をながめて暮れかぬる
柴田春雷
「森」洛中支部特選。
「暮れかぬる」は暮れかねる、つまり「遅日」のことを指す。
また板の鯉を見つめて夕闇に立ち尽くす作者の映像が浮かぶ。
また日は暮れかけて、まな板の鯉は観念しているのにも関わらず、作者の中には葛藤が感じられる。
映像の復元もあり、リズムも良い、自己の投影もあり、良い作品と言える。
観念した「また板の鯉をながめて」包丁を手に立ち尽くす姿は少しの危険性も孕んでいて、詠み手の自由であるが、面白味がある。


俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、1の核心を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

[追記]
現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
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2017年3月句会報

句会報の一部を紹介します。

席題(春、恋猫)
骨透くるまで春光に泳ぎけり
大森健司
啓蟄や均(なら)せぬこころ置き去りに
菅城昌三
膝小僧くすくす笑ひ入学す
西川輝美
花街の恋猫とほる我とほる
速水房男
春の月痴呆の母の尻白し
河本かおり
遅き湯にかすかに聴こゆ春のこゑ
武田誠
手のひらと手のひら合わせ春日中
松浦美菜子
絵筆とり我が魂の春しぐれなり
山本孝史
春愁や線路に草の揺れてをり
池上加奈子
春光のまた膝に来て顔に来て
白川智子
雨だれをとどめ紅梅三分かな
前川千枝
幼な子のよちよち歩く遅日かな
臼田はるか
たつぷりのミルク飲み干し春立ちぬ
中谷翔
春浅し白き夢から醒めぬ夢
柴田春雷

啓蟄や均せぬこころ置き去りに
菅城昌三
「森」中央支部での特選。
均(なら)せぬこころとは、一体どうゆうものか?
それ人それぞれによって当然異なる。
穏やかなものではないであろう。
現代、とくに近年においてこころを穏やかにするというシンプル且つ暮らしの根源となる行為は安易なことではない。
それを季語の啓蟄(けいちつ)によって見事に調和させている。転換とまではいかない。
調和である。
啓蟄(けいちつ)とは二四節気において雨水の後にあたり、陰暦二月の節である。
『滑稽雑談(こっけいぞうだん)』には、「月令(がつりょう)に曰(いわく)、仲春の月、啓蟄咸動(ちっちゅうみなうご)き、戸を啓(ひら)めきて始めて出(い)づと」出ている。
つまり、冬眠していた虫が穴から出てくること、をも指す。
その虫出しが均せぬこころ、そのものなのか。啓蟄によってそのこころを置き去りにすることによって出来たのか、作者の意図は分からない。
それは詠み手の解釈それぞれで良い。
詠み手の解釈の幅の広い作品ほど、良い作品であるとも言える。
それはつまり作品の【余白】に答えがある。

花街の恋猫とほる我とほる
速水房男
「森」中央支部での特選。
花街とは、かがいとも読み、芸妓家・遊女家が集まっている区域を指す。
そこに発情した恋猫が堂々と通り、作者自身もとおり抜けているという感覚が非常に滑稽で面白い。
滑稽とは、可笑(おか)しさであり、当然、哀しみもそこに伴うのである。
詩歌の原点は寂寥感(せきりょうかん)にある。
また俳句の原点となる、
①映像の復元
②リズムの良さ
③自己の投影
もしっかりとなされており、見事な作品に仕上がっている。
感心した一句。

春の月痴呆の母の尻白し
河本かおり
「森」中央支部での特選。
この作品はあっけらかんと謳われているが、少しばかりの危険性を孕んだ作品でもある。
痴呆の母親の看病中の様であろうか、
もしくはその痴呆の母親が尻を出して徘徊している様であろうか?
それはどちらでもよく「尻白し」と「春の月」が妙にマッチングしている。これは「春の月」以外では成立しないであろう、季語の恩寵(おんちょう)が見事に成功している作品。
春の朧に照らされた母の尻は、滑稽でもあり、哀しくもあり、又、飄々としている。
見事な作品。
なんだなんだと大きな月が昇りくる 時実新子

春浅し白き夢から醒めぬ夢
柴田春雷
「森」洛中支部での特選。
これは女性の衝動性とシュールリアリズムを合わせもった作品。
この夢が悪夢なのか吉夢なのかはどちらでも良い。
又どこでもが現実でどこまでが夢なのかも定かではない。
そこは詠み手に委ねるとする。
この、白き夢から、醒めぬ夢という転換も良い。
季語の「春浅し」も効いている。
男性なら夏の季語をもってくるかも知れないが、この季語に女性の生々しさが存在する。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、1の核心を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。
大森健司

現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp

2017年2月句会報

句会報の一部を紹介します。

近江吟行(浮御堂、満月寺)、席題(春一番、鳰)
春一番いのちの暖簾くぐりけり
大森健司
碑の文字の冴え返りては薄れゆく
菅城昌三
喉元を春過ぐ雨の浮御堂
西川輝美
くれなひに淡海暮れゆく春隣
速水房男
春一番信号赤に変りけり
渡部新次郎
鳰鳴けば鈍(にび)の湖(うみ)泣く浮御堂
河本かおり
浮御堂残る寒さもありしかな
武田誠
残雪を溶かす彼の手愛ほしく
松浦美菜子
月影の湖にまどろむ鬼やらひ
山本孝史
草履から踵落ちたる春日かな
池上加奈子
梅一輪手紙に昼をしたためて
白川智子
雨だれをとどめ紅梅三分かな
前川千枝
内裏雛今年こそはと寄せて置く
臼田はるか
薹(とう)の立つ遊女の肩に雪解光
柴田春雷

碑の文字の冴え返りては薄れゆく
菅城昌三
今回の近江吟行にて一番に特選に採った作品。
浮御堂(満月寺)には様々な句碑が建っている。
鎖あけて月さし入れよ浮み堂
比良三上雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋

これらふたつが松尾芭蕉。
そして、
五月雨に雨垂ればかり浮御堂 阿波野青畝
これらは境内にあり、まず迎えてくれるのが、阿波野青畝の句碑である。
そして境内の中庭に芭蕉や他の句碑が建っている。
また他にも句碑があるのだが、もはや文字が薄れていて解読できずなんの句碑か分からない。
それを見事に写生した昌三の作品。
「碑の文字の」…「薄れゆく」は見事なまでの写生である。
この句の成功は中七の季語、「冴え返る」にある。
中七に季語を持ってくるのは初心者では難しい技術。
それを絶妙に「冴え返りては」、ともってくるのは流石としか言いようがない。
また冴え返るというのは春の季語であるが、冬の寒さがまたぶりかえすという強い季語である。
その為、その後につづく「薄れゆく」との言語の強弱も絶妙に良い。技巧的にも非常に巧みな作品。

喉元を春過ぐ雨の浮御堂
西川輝美
立春を過ぎてすぐのこの日の浮御堂、近江吟行では終始、小雨であった。
曇天と小雨のなかの吟行であった。
喉元を過ぎる、という言葉に、たった「春」の一語を入れることによって輝美は独自のオリジナリティを出している。
「喉元を春過ぐ」という措辞は非常に素朴でありながらも、面白い。
他にも、
まなざしのさきに春あり阿弥陀仏
があり、良い。佳吟。

春一番信号赤に変りけり
渡部新次郎
「森」洛中支部での特選。
まずこの作品はいつも見られるような新次郎調ではない。
藤沢周平のような世界観もなければ、古典的な叙情もない。
しかし、なにか惹かれて特選にした次第である。
「春一番」とは立春を過ぎて一番に吹く南風のことを指す。
それによって作者が交差点で立ち止まったのか、もっと別の意味での「赤信号」での停止なのかは不明である。
しかし、なにかしら瞬間を切り取ったこの描写は評価に値する。
新しい境地を感じさせるような作品となった。
私の、春一番の句も参照にして頂きたい。
春一番いのちの暖簾くぐりけり 大森健司

鳰鳴けば鈍の湖泣く浮御堂
河本かおり
近江といえば、鳰(にお、又はかいつぶり)である。
その日も鳰は浮御堂の周りを取り囲み、潜っては餌をくわえ、また浮遊していた。
それがまたいつもの近江の風景であった。
この作品は鈍(にび)の湖泣くという措辞に成功の鍵がある。
いつまでも湖面に響いていた鳰の風景が今でも鮮明にうつるようである。

月影の湖にまどろむ鬼やらひ
山本孝史
これも近江の湖を指す「湖」である。
作者が滋賀県在住ということもあるが、湖という語が句に馴染んでいる。
また季語の「鬼やらひ」の意外性も良い。
鬼やらひとは当然、節分の鬼を祓う行為を指す。
だから、この作品はまどろむ、と鬼やらひ、との間で一回切れている。
近江の春の湖面にはまさに、まどろむもいった感覚が良く似合うのである。
叙情のある作品である。

梅一輪手紙に昼をしたためて
白川智子
「森」祇園支部での秀逸。
梅一輪と手紙という組合せは、下手をすると新聞俳句のような世俗的なものになりがちであるが、この作品は「昼をしたためて」という措辞によって、しっかりとした詩歌に昇華している。
また時間の流れ、空間も楽しめる作品となっている。
手紙に具体的に何を書いたかは明確に記されていない。
そこに俳の妙がある。
梅一輪いちりんほどの暖かさ 服部嵐雪

薹の立つ遊女の肩に雪解光
柴田春雷
「森」洛中支部での特選。
薹(とう)の立った遊女とはどんなものであろうか?
恐らく見てはいられない、滑稽で無様なものであろう。
作者もそれを切々と詠んでいる。
しかし、「雪解光」という季語によってこの作品の表情はがらりと姿を変える。
その無様な遊女が不思議と愛おしく、かえって美しく映るのである。
飯田龍太氏はこのような季語の使い方を「季語の恩寵」(季語のオンチョウ)と述べた。
季語によって全てが救われる、転換される事柄である。
この作品は正にそれに該当する。
古くもあるが、愛おしく、しっかりと季語の効いた作品。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、1の核心を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てる、ある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。
大森健司

現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp

2017年1月句会報

句会報の一部を紹介します。

席題(狼、去年今年、鏡餅)

狼や贅肉(ぜいにく)のなき詩を愛す
大森健司
狼や奈落に星を拾ひたる
菅城昌三
遮断機の向かふより来る去年今年
西川輝美
舞妓らのうなじまぶしき五日かな
速水房男
虎落笛答えを出せと我身さす
森千花
大文字も比叡もそこに羽子日和
渡辺新次郎
去年今年父の遺影の白き髭
河本かおり
木枯しやうわさらしきの通り過ぐ
武田誠
マフラーの端を持つ掌の嬉しさよ
松浦美菜子
去年今年水に浮くもの沈むもの
山本孝史
煮凝りの夢は化石となりにけり
池上加奈子
鏡餅土間に静けさ過ぎにけり
白川智子
冬苺若きを摘んでしまひけり
前川千枝
冬菫まだ見つかってほしくない
臼田はるか
寒椿小さき嘘の重さかな
柴田春雷

狼や奈落に星を拾ひたる
菅城昌三
奈落とは仏教用語であるが、地獄を指す。
またどうしようもないさま、どん底を指す。
奈落は俳人が
時として使用する単語でもある。
上句は「森」中央支部での特選。
席題である狼であるが、今回の席題の中で最も創作しにくい席題であることは違いない。
昌三のこの作品は、まず広大な夜の闇の広がりの映像がはっきりとイメージ出来る。
また十七文字の中での陰と陽、マイナスとプラスのバランスも非常に良い。
星を拾う様、そこには希望があるのか、希望を待っているのか、虚構の希望なのかは不明である。
そこがまた昌三らしい。
もはや作者は俳句の骨。
つまり俳句の骨格を得ているように思われる。
絶滅のかの狼を連れ歩く 三橋敏雄
狼や贅肉のなき詩を愛す 大森健司

遮断機の向かふより来る去年今年
西川輝美
「森」中央支部での特選。
遮断機の向かふより来る、という措辞が非常に良い。
個人的には遮断機といえば、アニメーションの『秒速五センチメートル』のワンシーンが鮮烈である。
しかし、その感情を抜きにして客観視点で見ても秀でた作品。
去年今年の季語もさりげなく効いている。
輝美の俳句の良さは良い意味で「地に足がついていない」所に特徴があるように思われる。
本人が生き方を彷徨っている証拠かもしれない。
しかし、それがまた良さでもある。

大文字も比叡もそこに羽子日和
渡部新次郎
「森」洛中支部での特選。
まず、大文字も比叡もそこに、というダイナミックなスケールから羽子板をしているというみにスケールの比重の移ろいが面白い。
大文字も比叡もそこに見えて羽子板をする場所といえば京都御所、出町柳辺りであろうか。
作者ならではの京都らしい風土性も顕著に出ている。
非常に親しみのある作品でもある。
作者は「見たものしかまだ詠めない」と語っているが、それで良い。
花鳥諷詠とは本来は、大きな意味での写生であり、ただの自然詠ではない。
作者独特の視点がそこにあれば、それは大きく存在するのである。
豆腐売り小路を曲がるしぐれかな (2016.12)
滴りて方丈石の語りだす (2016.6)
書を置けば比叡の山は寒の雨 (2015.12)
もののふや鍵屋の辻の初しぐれ (2013.11)

木枯しやうわさらしきの通り過ぐ
武田誠
「森」祇園支部での特選。
うわさらしきの通り過ぐ、という措辞が良い。
また木枯しの季語も非常に効いている。
これが春風になってしまうとかなり甘くなる。
喧騒の中にいる孤独、もしくは独り身の寂しさを感じさせる一句。
都会的な叙情句でもある。
誰かのいない孤独を感じる若者が多いが、作者はむしろ誰かいることの孤独の辛さを詠んでいる。
評価すべき作品。

冬菫まだ見つかってほしくない
臼田はるか
「森」祇園支部での特選。
これは現代仮名遣いの口語俳句に当たる。
実に女性らしい作品。
自分の存在自体を隠したいのか、ほのかな恋心なのかは分からないが、後者であるような気がする。
冬菫(すみれ)の季語が実に慎ましく可憐で愛おしい。
現代女性に失われがちな美学である。
やはり男性はこういった女性に惹かれるものである。
口語でありながらも、古風な一面を持った魅力ある豊かな作品である。

俳句は何度も言うように、全世界から一瞬を切り取る作業である。
そこには感受性、知性、品性、生き方、宇宙観、哲学等すべてが必要になってくる。
近年、若手作家としてメディアに出ている作品をみても、目はひくがすぐに飽きる。
それは人間性の脆弱(ぜいじゃく)さにある。
俳句とは文芸とは文化とは、入り口は浅く奥は限りなく深い。
僕は日々を自由に楽しく生きている。
いまの若者にももっと自由でいいんだよ、自分を大切にするんだよ、ということを伝えていきたい。


大森健司

現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉で人にインパクトを残すことが出来るか、ということです。それは仕事で最も大切な事であると感じます。又川柳や短歌にはない俳句独特の「季語」を勉強することによって言語の引出しは確実に増えていきます。人として大切な感受性も高めることが出来ます。自然とそうなります。
また句会とともに進めてまいります。
句会の参加、セミナー等、詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お気軽にお問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp

2016年12月句会報

句会報の一部を紹介します。

席題(水鳥、裸木、外套、手套)
外套や篠(しの)つく雨の夜となりぬ
大森健司
外套の釦も空も琥珀かな
菅城昌三
その夜のドアの向かふはクリスマス
西川輝美
枯野ゆく瞼の奥の枯野かな
速水房男
虎落笛答えを出せと我身さす
森千花
豆腐売小路をまがるしぐれかな
渡辺新次郎
水鳥や群れて孤独の餌を食む
河本かおり
裸木に花を点(つ)けるが如く生き
井納佳子
水鳥や吾子(あこ)の小さき肩に触る
武田誠
外套の寄り添っている夜明けかな
松浦美菜子
身にまとふもののなかりし冬薔薇(そうび)
山本孝史
押入れに今年も眠る聖樹かな
池上加奈子
寒椿冷たき雨のふりそそぐ
白川智子
顔見世や漫(ぞぞ)ろこころに席を立つ
前川千枝
足早にポインセチアを胸に抱き
臼田はるか
冬晴や置いてけぼりの猿回し
柴田春雷

外套の釦も空も琥珀かな
菅城昌三
昌三のこの一句は誰も採らなかったが、特選にした。
作者が昌三であると分かりつつ、新しい境地を垣間見た気がしたからである。
「琥珀かな」という措辞が非常に良い。
また釦も空も、と言うことで虚無感の様なものも感じ得る。
しかしそれは得てして希望かもしれない。
この本意は詠み手に委ねるとしても席題の「外套」でこの様な作品を生み出したことだけでも見事である。ある種のシュールな空間がそこに存在する。
他に同時作の佳吟として、
日向ぼこ人であること思ひ出す
黄落や拾ひし人も過客なる


その夜のドアの向かふはクリスマス
西川輝美
これも長年に渡り、作者を知っているだけに、作者らしい作品。
まず、起こしが巧みである。
起こし、とはそこから物語を連想させるきっかけとなるような要素を含む作品である。
「クリスマス」という季語はその内容からも作品が甘くなりがちであるが、これは程よくクリスマスの良さが出ている。
且つさりげない。
それは上五、中七による「その夜のドアの向かふは」という抽象的な措辞にあると言える。作者はまだクリスマスの空間にいないということになる。暗闇の中である。
実に巧みにクリスマスというファンタジィな空間が伝わる作品となった。

枯野ゆく瞼の奥の枯野かな
速水房男
「森」中央支部での第一の特選句。これには非常に感銘を受けた。
枯野のリフレインも非常に効いている。
また自己の投影もしっかりと為されている。
上五の「枯野ゆく」、それに従い、「瞼の奥の枯野かな」という措辞が非常に素晴らしい。
まさに俳句のルーツが訴えるという詩(うた)であることを証明して見せしめた作品。
枯野の例句は多い。その中でも代表的な作品に以下の様なものがある。
旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻る 松尾芭蕉
遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子
火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ 能村登四郎
枯野はも縁の下までつづきをり 久保田万太郎
速水房男の「枯野ゆく瞼の奥の枯野かな」はこれらの歴史的代表作品にひけをとっていないレヴェルである。
次の作者の代表作と並んで素晴らしいのひと言に尽きる。
水澄んで呼ばれるままに行きにけり

虎落笛答えを出せと我身さす
森千花
虎落笛(もがりぶえ)とは、冬の烈風が電線や柵などに吹きつけて、笛のような音を発することからきている冬の季語である。
この句の良さは力強い一句一章にある。
作者の芯の強さとこれまでの一筋縄ではいかない人生を物語っている。
そして、その物語は今も続いているのである。

豆腐売小路をまがるしぐれかな
渡辺新次郎
これも、森千花の虎落笛の句と並んで、「森」洛中支部での特選。
言葉は平明ながら、叙情的である。
正に、新次郎調といっても、過言ではない。
小路は露地に繋がる。小路をまがる、ということによって露地の存在を暗に示している。
季語の「しぐれ」がそれをより鮮明に映像化している。
作者と話している際、久保田万太郎の話になった。作者は好きであろう、と感じた。
私も久保田万太郎は非常に好きな俳人である。言葉は平明ながら、言葉と言葉の間の空間が豊かである。
また久保田万太郎全集を読み返したいと思っている。作者とも語り合いたい。

水鳥や群れて孤独の餌を食む
河本かおり
「森」中央支部での秀逸。
河本かおりの良さは「安全装置を外した俳句」と前回書いたが、それは違いない。
この句の成功は、しっかりとした観察にあるとともに、席題の水鳥の背景をしっかりと捉えている。
「群れて孤独の餌を食む」という措辞に惹かれた。これは人間社会にも当て嵌まるのではないだろうか。
集合体にいながらひとり、孤独であるというのはつまり寂寥感。詩の根源的なテーマでもある。

裸木に花を点(つ)けるが如く生き
井納佳子
「森」中央支部での特選。とともに高得点句でもあった。
井納佳子の作品のレヴェルはやはり圧倒的に上がったことを証明する作品。
「裸木」は席題であったが、葉も全て枯れて枝や幹があらわになったことの状態を想定して私も皆も創作していたが、この作品の着眼点には驚かされた。
その「裸木」に、「花を点(つ)けるが如く生き」というチャーミングさと謙遜さとを両立している作者の美学が現れている。
等身大の作品が非常に奥ゆかしいのである。
詠み手の心に火を灯す作品。
私の出した席題の「裸木」の個人作品よりも好きな作品である。
裸木や手紙みぢかきほど恋し 大森健司

押入れに今年も眠る聖樹かな
池上加奈子
「森」祇園支部での秀逸。
作者の年齢的なもの、背景を知ることによってより一層響いてくる作品である。
押入れに聖樹が眠るということは、今年もひとりのクリスマスを迎えたことになる。
また家族と過ごすにはいささか恥じらいのある年齢でもある。
自虐との紙一重であるが、季語の「聖樹」によってしっかり陽の世界に転換されている。
時代が移ろい変わろうが、このような女性の感覚は普遍である。もほや現代的なユーモアすら感じられる作品でもある。

冬晴や置いてけぼりの猿回し
柴田春雷
この作品は、ハレとケのバランスが良い。
「置いてけぼりの猿回し」とは想像すると、人間模様の描写であるように思われる。
それを作者は俯瞰的に見ている気がするのである。
季語の「冬晴」がほのかな寒さの中にある暖かな光を持っていて良い。
からりと現代の人間模様を謳った現代的な叙情詩に仕上がっている。
啓蟄やなんだかんだの猿芝居 速水房男

日常のいたるところに詩は存在する。
それを作者ならではの視点で掴めるか、否か、によって人間の感動の世界は大きく変わる。
つまりそれを創作する作品も変わるということである。
俳句をして最も大切なことは日常の中に非日常が潜んでいるということ、またそれの逆も知ることにある。
それを日々繰り返すことが俳句の大切さ、と言える。
物事を考えるにあたり、かの有名編集者である、みすず書房の代表から以下のことを学んだ。
①立ち止まり考える
②歩きながら考える
③走りながら考える
この三つが三つとも大切になってくる。
立ち止まり、考えるだけでは頭でっかちな知識だけの世界で留まってしまいがちである。
俳句は大自然から繋がる、ごく小さな小宇宙である。
つまり、それは、宇宙というスピリチャルな存在を身近に感じることの出来る「こころ」そのものである。
2016年、「森」会員全員が身心ともに健康であり、「森」俳句会にいることを幸せであると述べてくれたこと。
心から感謝したい。
大森健司

現在は企業のセミナーやコンサルティングも行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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