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2019年7月句会報

句会報告一部を紹介します。

兼題 : 祇園祭、夕立、草いきれ

イカロスや入日の中に金魚死す
大森健司
屏風絵のうしろ暗がる祭かな
菅城昌三
黒い猫とほりすぎたる巴里祭
西川輝美
髪乱し一夜明けたる白雨かな
速水房男
祇園会や一筋うらの露地明かり
上田苑江
人待てば灯の漏れ出る祇園祭
武田誠
夏の雨いくつの恋を過ぎて来し
松浦美菜子
人々のなにに急ぐや草いきれ
山本孝史
月が出て祇園囃子の音(ね)をせかす
池上加奈子
あの日より嫌ひになれず草いきれ
白川智子
草いきれ明日を待てない夜があり
前川千枝
夕立あと緑のにほひ蘇る
臼田はるか
夕立やわずかに海の香りする
中谷かける
京うちわ乙女の胸をのぞきこむ
村田晃嗣
夏の月満ちて羊水奔り出す
三谷しのぶ
草いきれ傷つきて血の匂ひかぐ
やまだふゆめ
玫瑰(はなます)や海のあをさを未だ知らず
柴田春雷

屏風絵のうしろ暗がる祭りかな
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この作品は、格調もあり、京都の祇園祭を見事に別の角度から描いた作品。
「祇園祭」は、日本の三大祭にも当たる京都では大変大きな祭事であるが、別名「屏風祭」とも言われる。
都の絢爛たる屏風絵がここぞとばかりに飾られる。
その裏にある「暗がり」。
作者は、京都の明と暗、陰と陽を見事に描いている。
京都で存在する意義の在り方、そのものの本質を描いているようである。
また、同時作特選に、
踊り場に出て夕立を脱ぎすてん
があるが、これも佳吟。
文法的に詳しくは、正しいとは言えないが、これが「脱ぎすてむ」だと、そこまで評価していないであろう。
俳句とは遊び心。文法や骨格も大切だが、何より大切なのは、詠み手に訴えかけてくる心の大きさである。

祇園会や一筋うらの露地明かり
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
これも実に京都という街並みをじっくり観察し、巧みに描いた作品。
京都という街は「露地」が大変多い。
広い通りから、一本細い露地に入ると、全く違う顔を見せるのが京都である。
また祇園祭の喧騒を離れた街の生活はなにも変わらない。
これも実に京都という街並みをじっくり観察し、巧みに描いた作品。
本来は華美な装飾を求めず、質素に、そしてひっそりと暮らす京都の息づかいが美しく描かれた情緒ある作品である。
作者の謙虚な生き様が、今回も良く現れている。

夏の雨いくつの恋を過ぎて来し
松浦美菜子
「森」祇園支部特選。
この句の成功の鍵のひとつに、兼題である「夕立」を使わずに「夏の雨」としたことにある。
「夕立」となると激しい恋愛をしたのだと詠み手に想像させることが出来るが、「いくつの恋を過ぎて来し」という措辞から、今は平穏に暮らしていることが読み取れる。
それを活かすのは、やはり「夕立」よりも「夏の雨」である。
激しい恋愛、穏やかな恋愛、成就しなかった恋、、様々な恋を得て現状への感謝の気持ちが「夏の雨」から読み取れるのである。
過ぎ去ったことが美しく感じられる心の余裕を感じさせる作品。

あの日より嫌ひになれず草いきれ
白川智子
「森」祇園支部秀逸。
「嫌ひ」じゃなくなったのは、ちょっとお節介な隣人なのか、仰々しい息子嫁または娘婿なのか、これは詠み手にさまざまな想像をもたせる。
「草いきれ」の鼻につく青臭さや熱気を人の空気に例えた、風刺とユーモアに溢れた作品。
第一印象で苦手だったのが、何かをきっかけにそうでもないと思える寛容と柔軟さ。
これは「森俳句会」のモットーである、他者に敬意を評し、良いところを伸ばす理念に通じる。
ストレス社会で心が狭くなり、他人の批判ばかりが多くなった現代、今一度心に留めて欲しい世界観である。

京うちわ乙女の胸をのぞきこむ
村田晃嗣
「森」中央支部特選。
「京うちわ」のルーツは、宮廷で用いられた「御所うちわ」である。
うちわ面と柄を別に作り、後から柄を差し込む「差し柄」の構造となっており、向こうが透けて見える。
金彩が施されているなど、高価なものであり、装飾品としても大変美しいが、金持ちの一種の道楽と見たのが作者の視点と思われる。
穢れのない「乙女」の胸元を、気付かれないように団扇越しに見る金満の老紳士のいやらしい目が映像として浮かびあがる。
それを冷ややかに横目で見ているかも知れない第三者、全てを俯瞰的に見た構図に、何とも言えぬ滑稽さがあり、作者得意の、ウィットに富んだ作品に仕上がっている。

夏の月満ちて羊水奔りだす
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
月の満ち欠けと、人間のバイオリズムは強い関係性を持つ。
満月になると、潮の満ち引きの差が大きくなり、人の気持ちも揺れると言われている。
「羊水」とは、胎児を包む薄い膜の内部を満たし、胎児を保護する液体、を指す。
これは人間以外も爬虫類、鳥類、哺乳類に見られる。
「夏の月」が「満ちて」きて「羊水が奔りだす」という取り合わせの妙が面白い。
また、羊水が自ずと奔りだすのことによって、女性の本能的で大胆な行動に出る、というところまで読みとれてくる。
根源的な男女の違いを感じさせる一句となった。

草いきれ傷つきて血の匂ひかぐ
やまだふゆめ
「森」鴨川支部特選。
過去の「草いきれ」の例句を凌駕する、生命力溢れた作品。
人は原始より、あるスイッチが入ると本能を駆り立てられ、アドレナリンが出る生き物だったことを思い出させてくれるようである。
野蛮を肯定的に捉え、草いきれの中に、むせ返るような熱気を濃密に感じられる。
「草いきれ」の本質を実に的確に捉えた作品である。

玫瑰(はなます)や海のあをさを未だ知らず
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
「玫瑰(はまなす)」はバラ科の中でもとりわけ鮮やかな発色を持つ。
一見毒々しくもある色をしているが、本来海辺の砂浜に咲くことから、厳しい環境にも生き抜く辛抱強さがあると言えよう。
人は見た目で左右されやすい生き物である。
逞しく見える女性の方が実は臆病であったり、恋に不器用なものである。
高いところから凛と見下ろしているような玫瑰。
実はその玫瑰が、本当は必死に取り繕っているだけで、海を怖がっているという作者の着眼点が面白い。
「海のあをさ」の措辞と季語である「玫瑰(はまなす)」の取り合わせも美しい。

十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
「森」鴨川支部が新たに開設された。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。


追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問等につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司
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2019年 春ー大森健司俳句作品

2019年 春ー大森健司俳句作品

うすらひや舞妓の紅の匂ひだす
かげろふや罪をのがれて水のうへ
永すぎし春や見知らぬ靴があり
春陰や白いページに文字落とす
蜃気楼切り絵の鳥が鳴きだせり
朧よりをとこのにほひ濃く戻る
手鏡や弥生の水の鳴りて過ぐ
鱗(うろこ)落つをんな来たりて花の昼
忘れ霜母の一生野にのこす
それぞれが鳥籠にゐて花の午後


「森俳句会」代表 大森健司作

2019年6月句会報

句会報告一部を紹介します。

兼題 : 睡蓮、梅雨、蛍

夕さればをんな睡蓮から生まる
大森健司
父の日や開かぬ扉のいくつある
菅城昌三
多弁なる真珠夫人や冷房車
西川輝美
睡蓮の絵の中にゐるふたりかな
速水房男
及ばざる我が身に眩し夕焼や
上田苑江
螢籠冥き(くらき)も永き夜を欲す
武田誠
若かへで雨の降りたる地蔵かな
松浦美菜子
梅雨入りの蛍光灯の点滅す
山本孝史
ほうたるやいたづらに夜が長くあり
池上加奈子
睡蓮のやがて女を封印す
白川智子
卯の花や雨に花びら集めたり
前川千枝
かすかなる風鈴夢を呼びもどす
臼田はるか
蛍火に雄であること忘じけり
中谷かける
脱ぎ捨てて立てばあかるき夏鏡
三谷しのぶ
梅雨に濡れうす紅(くれなひ)の芯ひらく
やまだふゆめ
あさぼたる声の記憶を無くしけり
柴田春雷

父の日や開かぬ扉のいくつある
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この場合の父は、自身の父と己そのものが父となれていない、二つの解釈が出来る。
作者を知っているだけに、この作品は後者の方が強いと思われる。
作者の優れた作品に以下がある。
木の実雨父ともなれず手ぶらなる
渇いた虚無感がそこに存在する。
「父の日」とは名ばかりで、「母の日」と比べても実にに存在の薄い催事である。
父(祖父)に反抗ばかりしていた私の20代の頃の作品は、
父の日の日当たる山のありにけり 健司
だった。
6月26日はその父の命日である。

多弁なる真珠夫人や冷房車
西川輝美
「森」中央支部特選。
これは実にユーモアに溢れた作品であり、この句会において一番に採った特選である。
作者はごく稀にこういった作風を垣間見せる。
処女句集『それでも夏が大好きで』の中にもそのユーモアは存在する。
貴婦人の放屁白百合うなだれて 輝美
この「多弁なる…」の作品も正しく作風は近い。
『真珠夫人』とは十数年前に日本中で話題になったテレビドラマであり、原作は菊池寛。
この菊池寛の『真珠夫人』は1920年連載発表後、大映や日活等の映画、また度々テレビドラマに於いて数多く放送されている。
この作品の中での「真珠夫人」は、菊池寛の原作の世界観ではなく、近年の昼のメロドラマの瑠璃子演じる真珠夫人らしき、高飛車で厚かましいモチーフの夫人を指している、と解釈した方が奥行きも出て、面白い。
どちらにせよ、詠み手の解釈に委ねられるが、季語の「冷房車」も抜群に効いており、作者の代表作のひとつとなるであろう、作品に仕上がっている。

及ばざる我が身に眩し夕焼や
上田苑江
「森」中央支部特選。
仏教に「七慢(しちまん)」という言葉がある。
人は自分自身を客観視する時、どうしても、良く見られたい、または悪く見られたくないという欲目が入る。
欲目とはいわゆる自惚れであり、それを無くして客観視することは出来ないとする。
自分の方が優位に立っている、相手の優れたところは認めたくない、卑下する自分は謙虚で素晴らしい、など自惚れを七つに分けたのが「七慢」なのである。
「及ばざる我が身に眩し」という措辞には、
釈迦如来の光のようである夕焼に、まだまだ自分はほど遠いという作者の謙虚な立ち位置が率直に表れている。
下五を「夕焼や」と倒置した季語の据え方も良い。
その「七慢」をきちんと理解し受け止めている作者の姿勢が眩しい作品。

かすかなる風鈴夢を呼びもどす
臼田はるか
「森」祇園支部秀逸。
近年めっきり、軒先に風鈴が下がっている家を見る機会が少なくなった。
エアコンの普及により、リモコン一つで暑さから逃れることは可能である。
しかし、蒸し暑い京都は殊更、風鈴のかすかな音色で涼をとるというのは、日本人ならではの知恵であり、美しい。
ある種のノスタルジーが「夢を呼び戻す」という措辞に込められ、作者の少女性が控えめに表現されている。

蛍火に雄であること忘じけり
中谷かける
「森」祇園支部秀逸。
「蛍」は、交尾の際、水上を高く舞い上がり、力尽きた雄は雌より先に落ちて命が尽きる。
雌はその後産卵の為、2、3日長く生きる。
作者の「雄であること忘じけり」という措辞が、女性に圧倒され、男性が弱い者にされている現代社会へのアンチテーゼのようであり、雄とは何であるかを今一度考えさせられる。
「蛍火」を上五に持ってきたことで、雌の生命力が強く感じられ、恐怖すら覚える。
現代の男女の微妙な強弱関係の切り取りが巧みな作品である。

脱ぎ捨てて立てばあかるき夏鏡
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
これは作者が女性でなければ、良さが半減してしまうであろう、作品。
一糸纏わず、裸でたちつくすひとりの女性。
そこに女性のダイナミックさと健全なエロスが混在する。
措辞の「あかるき」が絶妙に良い。
又、季語である「夏鏡」。
ギラギラとした夏の日差しに光った鏡に作者は、映っているのかどうかも定かではない。
しかし、そんなことは問題ではない。
更に深く解釈すれば、作者はなにもかも失っても「立てばあかるき」世界がそこに存在すると、も読みとれる。
それこそ女性特有の生命力の強さである。
得てしてこの大胆で健全なエロチシズムは作者の俳句作風の真骨頂と言えるであろうと思うのである。

梅雨に濡れうす紅(くれなひ)の芯ひらく
やまだふゆめ
「森」鴨川支部特選。
「森俳句会」鴨川支部において心強い新人が門戸を叩かれた。
この方との出逢いのお陰で、鴨川支部が開設されたと言っても過言ではない。
名前は伏せておくが、日本でも著名な学者。
それはさておき、まず句の素直さ、そしてその世界観の純度、言語感覚の鋭さに驚いた。
兼題の「梅雨」。
「梅雨に濡れ」て「うす紅の芯」が開いたのは、植物かなにかなのか、作者自身であるのか、それは分からない。
しかし、その「想像の余白」は既に「俳句の骨」を捉えて離さない。
俳句は一人称の文芸である。
「梅雨に濡れ」という素直な措辞も、平明で却って少女性、不思議な色気をかもし出している。
この作品の季語が俳人にありがちな、「長梅雨や」もしくは、「青梅雨や」では全くこの作品は活きてこないのである。
私はこの作品に於いて、一切の添削を行なっていない。
大変驚かされ、嬉しく思った句座であった。
またお逢いできるのを、私は心より楽しみに思っている。

あさぼたる声の記憶を無くしけり
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
「ほたる」は鳴かない虫である。
だからこそ、想いが募り、多くを語らない俳句の哲学に沿っている。
また、朝日の中命が尽き果てる儚さが美しいというのが、日本人の美学なのであろう。
「声の記憶を無くしけり」という措辞が、より否定的でありながら、何も持たない蛍への愛おしさが感じられる。
参考までに、源氏物語の蛍の章で、兵部卿の宮が玉鬘に想いを寄せるのに対して、玉鬘が冷たくあしらうのが次の二つの和歌である。
なく声も聞こえぬ虫の思ひだに
人の消つには消ゆるものかは
(兵部卿の宮)
声はせで身をのみ焦がす蛍こそ
いふよりまさる思ひなるらめ

スマートフォンが普及し、世の中はますます合理化されて行くが、後に残ることを考慮して、余計な言葉を排除した文(ふみ)の文芸として、俳句を楽しんでいただきたい。

十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
「森」鴨川支部が新たに開設された。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。


追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問等につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司

2019年5月句会報

句会報告一部を紹介します。

兼題 : 晩春、五月雨(さみだれ)、若葉、青葉

春暁や狎妓(こうぎ)の傘が干してあり
大森健司
借りものの服かげろふの水を踏む
菅城昌三
若葉寒ペン先が生む太き線
西川輝美
五月雨や近江商人荷をほどく
速水房男
去(ゆ)く春を指先ほどにとどめたし
上田苑江
さみだれや哀しき猫が毛繕ふ
武田誠
夏星を夫が取ってくれし夜
松浦美菜子
七度鳴るスマホを伏すやさみだるる
山本孝史
新しきルージュを買ひし柿若葉
池上加奈子
水芭蕉違(たが)はぬことを疑はず
白川智子
相乗りや若葉の季節巡るごと
前川千枝
五月雨や引き返すには遅すぎて
臼田はるか
晩春や出番なくした服がある
中谷かける
をんなとふ鬼ねむらせて新緑に
三谷しのぶ
女子(おみなご)の声を追ひつつ若葉かぐ
村田晃嗣
羅(うすもの)に四肢泳がせて夜がまた来
柴田春雷

借りものの服かげろふの水を踏む
菅城昌三
「森」中央支部特選。
私が、原句である、
借りものの服や五月の水を踏む
を「かげろふ」(陽炎)に添削しての特選。
原句の季語「五月」では、「借りものの服」の措辞が全く活きてこない。
季語を「かげろふ」(陽炎)にすることによって、その不安定な心情を巧みに詠みあげることの出来る作品となった。
俳句は虚実のバランス、世界観が最も大きいと再認識させる作品。

若葉寒ペン先が生む太き線
西川輝美
「森」中央支部特選。
作者らしい身近で平明な物を素直に詠った作品。
強烈なインパクトはないが、しっかりと「陰と陽」のバランスが取れていて、尚且つ「映像の復元」の為されている作品。
兼題の「若葉」の中でもどこか寂しさを感じさせる「若葉寒」を使ったところに、晴と褻(ハレトケ)としての文芸としての成功の鍵がある。

五月雨や近江商人荷をほどく
速水房男
「森」中央支部特選。
今月の中央支部の中でも最も感銘を受けた作品。
この「五月雨」は時代を超えて、モノクロームの世界観を映像として復元させる。
その「五月雨」を受けつつも決して手を止めない近江商人の様子がまるで、巻き絵の如く、美しく、一作品の俳句として描かれている。
具体的な「近江商人荷をほどく」という措辞が、兼題である「五月雨」に揺らぐことなくマッチしている。
商人であった作者の父を思い浮かべたのかもしれない。
いずれにせよ、見事な実力である。

去(ゆ)く春を指先ほどにとどめたし
上田苑江
「森」中央支部特選。
日本には四季があり、近年はその中で、春と秋の心地よい時期が短くなりつつある。
だからこそ余計に去りゆく季節を惜しむ気持ちがこみ上げる。
しかし、春は何度も巡りくる。
欲張らず、自身が持てるだけの少しの幸福に感謝し、余韻を楽しむ心の余裕が感じられる作品。
「指先ほどに」という措辞に、女性らしさが感じられ、散るからこそ美しい春がより一層鮮明に浮かびあがる。

さみだれや哀しき猫が毛繕ふ
山本孝史
「森」祇園支部特選。
雨が降ると猫は毛が濡れるのを嫌がり、軒下などに隠れてしまうので、おそらくこの場合は家猫である、と思われる。
狩りの本能を無くした家猫は餌を食べて寝ている以外、ほとんど何もしない。
そして、雨の前に湿度が上がり始めると、毛繕いをして、体温調節をはかる。
雨に動じず、ひたすら同じ行為を繰り返すのは決して哀しくはなく、自然に抗わない生き方なのである。
自然には逆らえない小さな哀しき生き物。
作者はそれを羨ましく思っているのか、または、人の動きが鈍くなる五月雨の季節、じたばたせずに、物思いに耽ることの美徳を、いち俳人として身につけているのかもしれない。

七度鳴るスマホを伏すやさみだるる
山本孝史
「森」祇園支部秀逸。
着信に気づいているのに、電話に出ずに伏せるのは、心変わりか、更には別の女性が横にいるのか。
それは詠み手に委ねられる。
下五を「さみだるる」としたことが、すぐには解決しない問題提起をされたようで面白い。
鳴り続ける不快な着信音に、たたみかけるように降る雨音。
春のしとしと降る雨と違い、雨量が多く雨音が激しい五月雨が心を乱し、不穏な空気を醸し出している。
追いかけられると逃げたくなる男性心理を巧みについた作品である。

をんなとふ鬼ねむらせて新緑に
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
季語の「新緑」のエネルギーを超えるパワーが感じられる作品である。
新しい生命の喜びと、夏の到来を表す新緑に、はたして鬼はおとなしくねむるのだろうか。
真夏ほどのギラついた陽射しは無くとも、紫外線が一番きついとされている季節であり、太陽の光を乱反射した「新緑」に、何か危うさを感じずにはいられない。
鬼子母神が子供を喰らわない様、釈迦が代わりにザクロを与えたいう俗説があるが、盛夏には再び目覚めてしまうかもしれない鬼を封印しているようである。
決して奇をてらった季語ではなく、素直に「新緑に」と季語を下五に収めたのも成功の鍵となっている。

羅(うすもの)に四肢泳がせて夜がまた来
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
現代では衣替えは年に二回、6月1日より着物は紗など「羅」(うすもの)になる。
「四肢泳がせて」いるのは、この場合、衣装が軽くなった喜びも当然あるだろうが、それよりも、風通しの良い夜が来る喜びが勝るのであろう。
「泳ぐ」というのも夏の季語であるが、この場合、重心としてメインの季語は「羅」(うすもの)にある。
「四肢泳がせて」という措辞も女性特有のモノでおり、良い。
そして下五の「夜がまた来」、と言う措辞が収まりが良くリズムも良い。
「羅」(うすもの)に四肢が透けて見えて、月明かりに照らされる姿が目に浮かぶようである。
実に古典的でありながら、色気のある作品となっている。

十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
今月より「森」鴨川支部が新たに開設された。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。


追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問等につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司

2019年4月句会報

句会報告一部を紹介します。

兼題 : 桜(花 全般)、朧

朧よりをとこのにほひ濃く戻る
大森健司
灯をつけしまま春泥に眠りけり
菅城昌三
灰皿に春愁二、三消しにけり
西川輝美
後ろ髪追へども追へども朧かな
速水房男
花群れを透かして若き月登る
上田苑江
花明り青磁の筒に水を挿(さ)す
武田誠
花冷や読みかけの本並びをり
松浦美菜子
花見酒清濁あはせ呑み干せり
山本孝史
打ちかけのラインを消して春寒し
池上加奈子
母なくて桜は未だ咲きにけり
白川智子
花冷えや人の残りて空低し
前川千枝
たんぼぽのやうな速度で逢いに行く
臼田はるか
朧夜や変わり者だといふ響き
中谷かける
とほき世のひとは隣りに花衣
三谷しのぶ
指で追ふ花のゆくえや高枕
村田晃嗣
モンシロチョウ遮断機降りて見送れず
柴田春雷

灯をつけしまま春泥に眠りけり
菅城昌三
「森」中央支部秀逸。
この場合の「春泥」は比喩と捉えた方が良いだろう。
部屋に帰ってひたすら「春の泥」のように眠る作者。
出張の多い作者だけにその映像は復元することが出来、自己の投影もされた作品。佳吟であるが、正直作者の力量を知るうえでは弱い作品。

花群れを透かして若き月登る
上田苑江
「森」中央支部特選。
若き月という措辞が、言葉は平明でありながら、生命力が漲り、今から登ろうとする月の映像の切り取りと復元が見事である。
花の群れを透かして見える月という、奥行きの技法も素晴らしい。
仄白い、春の色彩感が美しい作品である。
躍動感も脈々とあり、エネルギーに充ちた作品。

花明り青磁の筒に水を挿(さ)す
武田誠
「森」祇園支部特選。
青磁の器は唐代より文化人に愛され、貴族から重宝されており、大変美しい色彩を持つ。
華美な虚飾を持たず、飽きがこないのが素晴らしいのである。
外は春の花盛りであるのに、部屋で一人、花器に水を挿す行為が天邪鬼(あまのじゃく)的な行為であり、作者のメッセージが読み取れる作品。
「花明り」に勝る、青磁が放つ美しい色彩と光が作者の目を捕らえて離さないようである。

花冷や読みかけの本並びをり
松浦美菜子
「森」祇園支部秀逸。
「読みかけの本並びをり」という措辞に対して、季語の「花冷」が絶妙に効いている。
仕事帰りに夜、花見に行こうと浮かれ気分であるのが、出鼻をくじく「花冷」の寒さがあるように、春はスタートのエンジンがかかりにくい。
その少し鬱々とした気分が分かりやすく表現されている。
読みかけの本が並ぶという措辞からひとり暮らし、もしくは個の部屋であることが、想像することが出来る映像の復元力。(作者を知ると後者。)
「花冷」という季語そのものが、作者のつぶやきを大きく反映しているように思える。
春の歓びではなく、もう一方の春の寂しさを感じさせる作品に仕上がっている。

たんぼぽのやうな速度で逢いに行く
臼田はるか
「森」祇園支部特選。
「たんぽぽのやうな速度」とはどんな速度なのか?
作品そのものが問いかけのようで面白い。
「たんぽぽ」は朝日を浴びて花が開き、夜になると萎むのを繰り返し、ゆっくり一週間ほど咲き続ける。
そして一度花びらを落とし、再びゆっくり時間をかけて綿毛になる。
春という美しい時間をゆっくり楽しむように、恋も焦らずといった、少しの余裕と臆病さが入り混じった心豊かな作品と解釈して良いだろう。
実に作者らしい瑞々しく、手垢のついていない作品に仕上がっている。

とほき世のひとは隣りに花衣
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
この場合の「とほき世」は短歌的解釈ではなく、私なり解釈で捉えさせて頂く。
この現実に存在しないひとでも良いし、すでに自分から遠ざかったひと、どちらでも良いのだが、前者の方が作品としての膨らみは増すであろう。
現実に存在しないひとと並ぶのが、桜そのものの魔力であり、それが季語の「花衣」によって繊細に表現されている。
「花衣」とは、花見の時に着る女性の美しい着物のことを指すが、現代の季語における「花衣」は花見の為に着て行く御化粧(おめかし)の服装全般としての解釈で良いと思われる。
季語を「桜」そのものではなく、「花衣」と自身に引き付けているのが、成功例となった鍵である。

指で追ふ花のゆくえや高枕
村田晃嗣
「森」中央支部特選。
村田晃嗣氏と、とあるバーで談笑した時に、即興で、
「北へ行く桜前線」と出された。
それでは説明句になるので、「花のゆくえ」に直しましょうということになり、「指で追ふ花のゆくえや」までが出来上がった。
下五に何を持ってくるかが鍵であるが、その場ですぐ作者は、「高枕」を持ってこられた。
これには大変驚かされたのを記憶している。
『俳句とは即興なり、挨拶なり、滑稽なり』と山本健吉氏は述べられている。
この山本健吉氏の言葉を正に俳句として、昇華させた瞬間であった。
春の昼は「霞(かすみ)」、夜は「朧(おぼろ)」であるが、「高枕」という言葉を持ってきたことで、その霞んで気だるい感を見事に払拭して、格調ある作品に仕上がっている。
それほどまでにこの「高枕」の下五は素晴らしい措辞である。
俳句は本当におもしろい、と私自身も感じた場であった。

モンシロチョウ遮断機降りて見送れず
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
踏切の遮断機が降り、電車が通り過ぎて、何かを見失う光景が映画の一コマのようであり、映像の復元がしっかりなされている。
「見送れず」で終わることで、悲しみや寂しさが込み上げる。
「モンシロチョウ」が漢字の「紋白蝶」ではなく、片仮名であるのも面白く、現代的。
電報のようなぎこちない文体が、他人事のように突き放した感があり、春に出遅れたような、作者の虚しさを強めている。
優れた作品で特選に値する。

十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
今月より「森」鴨川支部が新たに開設された。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。


追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問等につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司
プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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