俳句現代賞受賞式にて

第一回俳句現代賞新人賞を受賞して、もう8年になる。
つまり今は第九回俳句現代賞が発表されている頃である。
名だたる俳人や文化人が多数おられた会場。スピーチでは、「実際に目に映らないものや聞こえないものの世界観を自分自身の魂というフィルターでリアルに詠んでいきたい。これからも俳句には全体重を賭けて、生きていきたい」というようなことを述べたような記憶がある。そこは読売新聞等に掲載されていたので、覚えているが、後は記憶にない。
大賞の母の後での、スピーチだったのでいつになく珍しく話しにくい空間であった、のも記憶している。
俳句は、本当に「夏炉冬扇」の文学である。
この世に俳句というものがなくなっても、生きてゆくのに困る人はいないかもしれない。
でも、だからこそその答えのない世界に全体重をかける価値がある大いなる遊びなのである。
己と向き合い、裸で感性を斬り合い、感受性を磨く。
本当にシンプルなことである。
そのシンプルなことが一番大切だと、今改めて感じる。
当たり前のように屋根の下で眠り、何か食べるものがある、
それに感謝しかない。
皆にありがとう、自分自身にありがとう、、、
人は道があり、約束があり、ほんの少しの運があればまたいつか必ず逢えることが出来る。
そう信じて今日も生きてゆく。

選考してくださった角川春樹氏、亡くなられた辻井喬氏、加藤郁也氏に心から感謝の意を改めて述べたい。

俳句現代賞受賞式

大森健司
スポンサーサイト

2016年6月句会報

句会報の一部を紹介します。

吟行(席題:薔薇、花菖蒲、新緑)
薔薇一輪放して白き手が残る
大森健司
日曜の薔薇を探してゐたりけり
菅城昌三
緑さすきのふの道のつづくかな
西川輝美
薔薇園や隣の席は空ひてます
速水房男
滴りて方丈石の語りだす
渡部新次郎
新緑や抱擁する手震えをり
河本かおり
新緑やむかしばかりが光るなり
高木憂
星空の星よこぼれよなめくぢり
篠田和
短夜の酔ひ覚めてまた戻りけり
池上加奈子
本借りて真夏の坂を登りけり
佐藤美奈子
洗ひ髪心逸りて束ねたり
白川智子
軒簾過ぐ極楽の余り風
柴田春雷
己が影伸びて伸びてぞ西日落つ
平智之

今月は京都市立植物園にて吟行句会を催した。席題はその場で、薔薇、花菖蒲、新緑を出した。必ずそれぞれ一句は創ること。
花菖蒲が一番の咲きどころであったが、それだけでは難しいと思い、まだ少し早かったが薔薇を入れた。新緑は「緑」「緑さす」とも言います、と説明したのち、やはりその季節感を思わせる晴れた新緑の天候であった。
皆、即吟で創作しているのでそこは理解頂いた上で、鑑賞してもらいたい。

緑さすきのふの道のつづくかな
西川輝美
これは、「森」中央支部吟行、新緑の席題での特選句。
「新緑」「緑さす」というのは、やはり文字からしても、五月、六月までであって、七月以降は「茂」という表現が適している。
正に植物園内、全てが新緑に覆われていて、またそれぞれの木々によって微妙に異なった緑が風に揺れていた。
それを見事に一句に収めている。
「きのふの道のつづくかな」という、中七下五の措辞がなんとも良い。
そしてさりげなく緑さすという季語を入れることにより、句に嫌味がない。
これは「若葉」でも「万緑」でも成立はしない。新しい生命力の水々しさでは、やはり「新緑」に太刀打ち出来ない。
文句のつけようのない吟行即吟での輝美の一句。

薔薇園や隣の席は空ひてます
速水房男
これも「森」中央支部での特選。輝美と房男さんの二つが特選となった。
これが輝美なら分かるが、作者はいつも近江を詠んでいるだけに余計新鮮に感じた。
また作者の吟行即吟での実力を改めて知った。
薔薇園の周りには至るところにベンチが置いてある。座っているのは、大概老人。それも男性である。
山本健吉氏は
俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即興なり。
と説かれていた。
その観点からしてもこの滑稽さと自虐的でもある可笑しみはそれに値する。
非常に映像の復元と自己投影のある、即興俳句である。

新緑や抱擁する手震えをり
河本かおり
この句を見たときの妙な衝動を覚えている。
「新緑」という希望に満ち溢れている季語に対して、何かに震えている作者。
作者の心の底を見たような気がした。
この抱擁は対象はなんであっても良い。むしろ、そこは詮索すべきではなかろう。
赤ん坊でも良いし、異性でも良い。
しかし、爽やかな新緑の中に震える様を想像すると、不思議なひんやりした不気味さが生まれるのである。そこをかなり評価している。心情の吐露である。
これもまた即吟の良さといえよう。
心を一瞬ひやっとさせるある種の文学的作品である。

滴りて方丈石の語りだす
渡部新次郎
「森」洛北支部での特選。
方丈石とは、鴨長明の草庵(方丈)が建っていた下の大石のことを指す。この上で鴨長明はかの「方丈記」を執筆したと言われている。
場所は確か日野法界寺であったであろうか、定かではない。
それはさておき、この「滴りて」という季語によってこの作品は素晴らしく虚構と現実の世界の狭間で成立している。
見事である。
作者は写生句が得意であり、少し無頼でアウトローなところがある。その良さを存分に発揮している一句といえよう。

洗い髪心逸りて束ねたり
白川智子
この作品は女性ならでは、の作品。
俳句には名誉、肩書き、地位、年齢、性別は一切関係ないが、やはり女性らしさというものを感じる作品である。
これは好きな人の元へ、と向かうのだと捉える方がより美しい。
逸りては、はやりて、と読む。
この「心逸りて束ねたり」という措辞が、より一層、日本女性ならではの抒情ある美しさを引き立たせている。まだ乾いていないであろう黒髪、である。

軒簾過ぐ極楽の余り風
柴田春雷
この句を選句できるひとはまず少ないのでは、なかろうか。
これは「森」洛北支部での特選。
「簾(すだれ)」自体が夏の季語であるが、青簾、竹簾、絵簾、古簾など、数多く存在する。
現代で一般的なのは玄関や窓にかけて、日除けや目隠しの役目をする軒簾。
驚いたのは中七下五のその措辞である。
「過ぐ極楽の余り風」
なんと端的に凝縮された中に広がりのある言葉遣いであろうか、作者の文学的要素に驚きを覚えた作品。
「極楽」の「余り風」という言葉がなんとも絶妙で何度、舌や魂で転がしても飽きがこない。ある種の諦めにも似た達観と余裕の見られる作品である。

ここ1、2年の大森健司の初夏の作品を幾つかここに羅列する。

あるがまま生きて朝焼け泳ぎけり
ほとけとは無なりさみだれさみだるる
わが野性椅子にきしませ五月逝く
木下闇より縄文人の走り出す
黄金虫赤い言葉をこぼしけり
明け易の少女人魚に戻りけり

うすものを着て邯鄲の夢見たり
夏つばめ戦後は遠く近くあり
やがてくる死に緑さす光りあり
ちちははや夏のにほひの雨が降る


大森健司










2016年5月句会報

句会報の一部を紹介します。

はつ夏の真つ赤な口を開きけり
大森健司
目刺し焼き愚かなる日々貫けり
菅城昌三
絵扇のどこか悲しき音の中
西川輝美
天国のドアを叩きて花水木
速水房男
遺伝する鎖骨のほくろ夏立ちぬ
河本かおり
栗の香や白く明けゆく夜があり
高木憂
五月雨に濡れしかかとの白さかな
井納佳子
青空に蝶がふれるや風のおと
篠田和
今日もまた行きつもどりつラムネ玉
池上加奈子
白き靴少し汚して会いにゆく
佐藤美奈子
燻(くゆ)らせる煙の長き夏の暮
白川智子
子蟷螂未だ見ぬ父は母が食(は)み
柴田春雷
無辺まで舌なめずりの青田風
平智之

目刺し焼き愚かなる日々貫けり
菅城昌三
他の作品に、
花守に昼の終はりのビスケット
葉桜や平日ダイヤ動き出す
五月闇王継ぐ者を待ちにけり

がある。
今回は「目刺し焼き」の句を選んだ。
この句は角川春樹の影響。これ迄の春樹氏の作品に「目刺し焼く」「秋刀魚焼く」「餅焼く」という季語を使った作品は非常に多い。
ただ、「愚かなる日々貫けり」に昌三らしさ、というものが残っているように感じた。
と、ともに現実の世界への疲弊も垣間見える。
陰を陽に転換することに俳句の小宇宙がある。
その観点からすると昌三のレヴェルを知っているだけに特選にしては甘いと思う句でもある。
座とは感性の斬り合いの場。
今後に期待している。
昌三には平成に名を残す俳人になって貰いたい。

絵扇のどこか悲しき音の中
西川輝美
これは、五体、五感、すべてを触発させる作品である。
輝美の近年の代表作品と言ってもよい。
また抒情にも非常に優れている。
他の作品を圧倒して、群を抜いての5月の「森」中央支部特選。
成功の秘訣に季語の「絵扇」がある。
この絵扇の彩りによって、より寂寥感が募り、色彩感とイメージの復元が為されている。絵扇を扇ぐごとに寂寥感が色を持って微風となり、広がっていくようなイメージが湧く。
その美しさと寂しさとのコントラストが見事に昇華されている作品となっている。
扇は夏の季語であるが、扇子・末広・白扇・扇売りなどは皆これに属して夏の季語となる。
例句として、
帯の上の乳にこだはりて扇さす 飯田蛇笏
烈日に開きて固き扇かな 中村汀女
白扇を捨てて手だけになりて舞ふ 山口誓子

これ等の作品と比べても全く遜色はない。
むしろ上回っているといっても、過言ではない。
素晴らしい、の一言に尽きる。

遺伝する鎖骨のほくろ夏立ちぬ
河本かおり
「森」中央支部での秀逸。
また、これは5月「森」中央支部高得点句でもある。
「夏立ちぬ」という季語が非常にさらりとしていて、句が真っ直ぐで良い。
また「鎖骨」と「夏立ちぬ」の組み合わせも色気と艶があり、成功している。
この句を見たときに次の一句を思い出した。
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷

五月雨に濡れしかかとの白さかな
井納佳子
これは、個人的に好きな作品。
「森」中央支部では秀逸でとりあげている。
夏には「素足」という季語がある。
そこをあえて、「五月雨」と「かかとの白さ」というコントラストによって見事に表現されている。五月雨とは、いかにも日本的な情緒ある言葉。それを殺すことなく「濡れしかかとの白さかな」と中七、下五を持ってきた感性は素晴らしい。

白き靴少し汚して会いにゆく
佐藤美奈子
「会いにゆく」のは好きな人の元であろう、と思われる。
この句には、処女性とそれからの脱皮との葛藤のなかの儚さがある。
そこに女性的な感性を受け取った。
また夏の季語である「白き靴」が清々しく、それを昇華させている。
しかし、その白さは失ったものでもある。
純潔さとそれに相反するものを自己投影させた美奈子らしい作品。

子蟷螂まだ見ぬ父は母が食み
柴田春雷
「森」洛中支部での特選。
これは蟷螂に託して人間の「家族」という題材がモチーフにされている。
勿論、母が実際に父を食べることはない。
虚構と想像の世界観である。
父がいない、という心の穴はよく理解できる。
僕の作品にも父をモチーフとした作品はかなり多い。
第一回俳句現代賞で例に挙げるなら、
竹の子を父なるひとと食べにけり
父の日の日当たる山のありにけり
父なくてひとりに広きバルコニー
秋風や腰のあたりに父の墓
健司

この春雷の父母の虚構も、寺山修司や横溝正史、また江戸川乱歩にあるフィクションの良さである。寺山修司などは作品の中で幾度となく、母を殺している。
まさに愛憎というものに共感した一句。

無辺まで舌なめずりの青田風
平智之
無辺(むへん)とは仏教用語でもあり、広々として果てしのないさま、ことを指す。
これを「舌なめずり」するという表現に、作者の志と見えない心象挑戦を見た気がした。
また「青田風」という季語によって、それが嫌味でなくワクワクするような爽やかさを感じさせるのである。
これは虚空の現実世界に対する作者の実の熱い思い、と受け止めた。
「森」洛中支部での特選。

日本の文化の根底には「守破離」というものがある。これはまずは基礎を徹底的にマスターし、自分の物にし、体得してから己の中で形を変え、最後には全く始めのものとは別の物に生まれ変わるという日本文化の精神である。
堀江貴文氏に「寿司職人に修業は必要ない」というものがあったが、彼の言っていることは超合理主義である。否定はしないが、それを現代の若者達がTwitter等で議論をしているところをみると、まず皆背景となる基礎知識、体感がない。守破離の「離」だけを捉えている。それは個性とは呼ばない。個性とは醸造されるものである。
失敗はどんどんすれば、良い。
それによって己、という存在の価値、器、適性を知ることができる。
俳句に例えるなら、桜は桜の良さ、梅は梅の良さ、菊は菊の、紫陽花は紫陽花の良さがある。皆、違うからこそ、活かされあえるのである。
俳句が「座の文芸」と呼ばれる所以はそこにある。己の特性を活かし、他者と真剣に感性を斬り合う大いなる遊びなのである。
これは世の中には不必要なものかもしれない。いわゆる「夏炉冬扇」である。
しかしそこに答えのない世界であるからこそ、全体重を乗せて真剣に遊ぶということ。
これが、いまの日本の国民には必要ではないか、と思っている。
日本国に日本人として生まれてきたことに誇りを持つためにも必要である。

大森健司











プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR