2017年10月句会報
句会報の一部を紹介します。
兼題 : 月、梨、藤袴(大原野吟行実施)
藤袴いくつの声を忘れきし
大森健司
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
菅城昌三
指で追ふ活版印刷色鳥来
西川輝美
雨音の湖まで続く秋の鮎
速水房男
鵲(かささぎ)の落とした切符銀河行き
河本かおり
藤袴抜け殻に似た昼を抱く
武田誠
かのひとの残り香を踏む藤袴
松浦美菜子
名月や手に乗るほどの靴のあり
山本孝史
蜘蛛の囲に月のでられぬ都会かな
池上加奈子
いにしへの比叡を見るや藤袴
白川智子
梨むくや夕べの喧嘩置き去りに
前川千枝
手折りてはためらうばかり藤袴
臼田はるか
月の夜ねこの森にはかえれない
中谷翔
何もかもうまくいくわと秋日傘
裕
大陸の男(ひと)の香りや巴里の秋
しのぶ
恥じらひて化粧落とせし藤袴
柴田春雷
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この句の成功は作者の存在せぬ立ち位置に存在する。
「ひとりあそびの果てに咲く」の措辞が、非常に幻想的で幽玄な世界である。
この不安定な措辞によって、季語である「藤袴」の様が、逆に有り有りとリアルに浮かび上がる。
サラリーマン作品の多い作者の中では珍しい手法である。
今月は、「藤袴吟行」として、大原野に向かったが、その中でも特に素晴らしかった即吟である。
流石、名だたる俳人達と句座を囲み空気感を体感しているだけに、俳句の系譜は深い。
感銘に値する作品。
私、大森健司の「藤袴吟行」の俳句作品は以下である。
藤袴いくつの声を忘れきし
大原女の背なも暮れたり藤袴 大森健司
参考にして頂きたい。
指で追ふ活版印刷色鳥来
西川輝美
「森」中央支部秀逸。
この作品はとにかくリズムが全て、である。
「活版印刷色鳥来ーかっぱんいんさついろどりく」と、非常に心地よいリズムで収められている。
また「指で追ふ」と具体的な作者の動きを入れたことによってより映像が復元出来、また「色鳥来」で色彩感が豊かでもある。
少女趣味とも言える輝美の作品は分かり易く、女性人気も高い。
これはこれで良い。
色鳥とは秋に渡って来る小鳥の総称であり、花鶏(あとり)、鶸(ひわ)、尉鶲(じょうびたき)など色彩の美し鳥が多いことから色鳥と呼ばれる。
そして、色鳥には以下の例句がある。
参考にして頂きたい。
色鳥や森は神話の泉抱く 宮下翠舟
色鳥の来てをり晴のつづきをり 森澄雄
雨の庭色鳥しばし映りゐし 中村汀女
色鳥や買物籠を手に持てば 鈴木真砂女
藤袴抜け殻に似た昼を抱く
武田誠
「森」祇園支部特選。
これも、「藤袴吟行」による作品。
乾いた叙情世界観がそこにある。
又、不思議と異性と無機質に肌を重ねても埋まらない寂しさの様なものを、その根底に感じさせる作品でもある。
輝美の彩りのある作品とは真逆のモノクロームの世界。
都会的な作品であり、季語の「藤袴」がそこに絶妙に位置している。
愛の渇きを彷彿とさせる作品。
月の夜ねこの森にはかえれない
中谷翔
「森」祇園支部特選。
この作品はアニメージュの良さである。
「ねこの森」とは一体どんな森であろうか。
詠み手に様々な想像を膨らませる完成された作品。
現代社会の生きにくさ、そのものを象徴しているようにも思える。
月の灯りをたよりに暗い森から出たのはいいが、かえって迷ってしまうというパラドックス。
作者はもはや道を見失っているかもしれない。
完成された大人になったのかもしれない。
この「ねこの森にはかえれない」というのは、かのユニークな谷山浩子の曲名であるが、それはさして問題ではない。
大人になると却って見えなくなる物は数多く存在する。
特選に値する一句である。
此れまでの作者の中で、代表作品とも言える。
大陸の男の香りや巴里の秋
しのぶ
作者は今月から「森」俳句会に入会された全くの新人。
しかし、短歌を既に嗜まれていて数々の受賞もされている女性である。
驚くべきことに「俳句の骨格」が既に為されている。
この作品はまず気品に満ち溢れていて、女性特有の巴里かぶれは少々鼻につくが、彼女の場合巴里は大変身近にある。
俳句とは言葉を自分の物にすることである。
饒舌でなくとも、自分の言葉を持ってしてこそ、俳句は自分の物になる。
又、「大陸の男(ひと)の香り」、この様な措辞は此れまで見たことがない。
ウィットにも満ち溢れた表現が素晴らしい。
実際にこの作品からは何故か、するはずが無いのに香りがしてくるのである。
「巴里の秋」の着地点も見事である。
文句なしの特選である。
他に感銘を受けた作品として、
ペディキュアの赤ゆらめきて秋湯殿
この作品も俳句の根本である、「晴と褻」「陽と陰」がしっかりと際立っている。
湯気でぼやけている筈の視界に飛び込んでくる強烈な赤。
これは、春・夏・冬ではなく、決定打はやはり秋である。
このまま鋭い感性と気品、骨格を維持して頂きたい。
恥じらひて化粧落とせし藤袴
柴田春雷
「森」洛中支部特選。
これも秋の野に咲く「藤袴」の本質を捉えている。
錦繍の秋も良いが、野ざらしの可憐な花を愛でるのも又格別である。
「恥じらひて化粧落とせし」の措辞が大変素晴らしい。
男性では決して描くことの出来ない世界観を持っている。
「恥じらひて化粧を落とす」という奥ゆかしさと虚飾を捨てて残る上品さが、季語の「藤袴」と絶妙にマッチングしている。
これも句歴は違えど、昌三の
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
に匹敵する作品である。
藤袴は準絶滅危惧種であり、現在京都市が再生プロジェクトに取り組んでいる。
万葉時代に歌人が愛でた藤袴というものを、俳句同様、後世に受け継ぎたいと願うばかりである。
俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。
「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。
俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。
追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
兼題 : 月、梨、藤袴(大原野吟行実施)
藤袴いくつの声を忘れきし
大森健司
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
菅城昌三
指で追ふ活版印刷色鳥来
西川輝美
雨音の湖まで続く秋の鮎
速水房男
鵲(かささぎ)の落とした切符銀河行き
河本かおり
藤袴抜け殻に似た昼を抱く
武田誠
かのひとの残り香を踏む藤袴
松浦美菜子
名月や手に乗るほどの靴のあり
山本孝史
蜘蛛の囲に月のでられぬ都会かな
池上加奈子
いにしへの比叡を見るや藤袴
白川智子
梨むくや夕べの喧嘩置き去りに
前川千枝
手折りてはためらうばかり藤袴
臼田はるか
月の夜ねこの森にはかえれない
中谷翔
何もかもうまくいくわと秋日傘
裕
大陸の男(ひと)の香りや巴里の秋
しのぶ
恥じらひて化粧落とせし藤袴
柴田春雷
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この句の成功は作者の存在せぬ立ち位置に存在する。
「ひとりあそびの果てに咲く」の措辞が、非常に幻想的で幽玄な世界である。
この不安定な措辞によって、季語である「藤袴」の様が、逆に有り有りとリアルに浮かび上がる。
サラリーマン作品の多い作者の中では珍しい手法である。
今月は、「藤袴吟行」として、大原野に向かったが、その中でも特に素晴らしかった即吟である。
流石、名だたる俳人達と句座を囲み空気感を体感しているだけに、俳句の系譜は深い。
感銘に値する作品。
私、大森健司の「藤袴吟行」の俳句作品は以下である。
藤袴いくつの声を忘れきし
大原女の背なも暮れたり藤袴 大森健司
参考にして頂きたい。
指で追ふ活版印刷色鳥来
西川輝美
「森」中央支部秀逸。
この作品はとにかくリズムが全て、である。
「活版印刷色鳥来ーかっぱんいんさついろどりく」と、非常に心地よいリズムで収められている。
また「指で追ふ」と具体的な作者の動きを入れたことによってより映像が復元出来、また「色鳥来」で色彩感が豊かでもある。
少女趣味とも言える輝美の作品は分かり易く、女性人気も高い。
これはこれで良い。
色鳥とは秋に渡って来る小鳥の総称であり、花鶏(あとり)、鶸(ひわ)、尉鶲(じょうびたき)など色彩の美し鳥が多いことから色鳥と呼ばれる。
そして、色鳥には以下の例句がある。
参考にして頂きたい。
色鳥や森は神話の泉抱く 宮下翠舟
色鳥の来てをり晴のつづきをり 森澄雄
雨の庭色鳥しばし映りゐし 中村汀女
色鳥や買物籠を手に持てば 鈴木真砂女
藤袴抜け殻に似た昼を抱く
武田誠
「森」祇園支部特選。
これも、「藤袴吟行」による作品。
乾いた叙情世界観がそこにある。
又、不思議と異性と無機質に肌を重ねても埋まらない寂しさの様なものを、その根底に感じさせる作品でもある。
輝美の彩りのある作品とは真逆のモノクロームの世界。
都会的な作品であり、季語の「藤袴」がそこに絶妙に位置している。
愛の渇きを彷彿とさせる作品。
月の夜ねこの森にはかえれない
中谷翔
「森」祇園支部特選。
この作品はアニメージュの良さである。
「ねこの森」とは一体どんな森であろうか。
詠み手に様々な想像を膨らませる完成された作品。
現代社会の生きにくさ、そのものを象徴しているようにも思える。
月の灯りをたよりに暗い森から出たのはいいが、かえって迷ってしまうというパラドックス。
作者はもはや道を見失っているかもしれない。
完成された大人になったのかもしれない。
この「ねこの森にはかえれない」というのは、かのユニークな谷山浩子の曲名であるが、それはさして問題ではない。
大人になると却って見えなくなる物は数多く存在する。
特選に値する一句である。
此れまでの作者の中で、代表作品とも言える。
大陸の男の香りや巴里の秋
しのぶ
作者は今月から「森」俳句会に入会された全くの新人。
しかし、短歌を既に嗜まれていて数々の受賞もされている女性である。
驚くべきことに「俳句の骨格」が既に為されている。
この作品はまず気品に満ち溢れていて、女性特有の巴里かぶれは少々鼻につくが、彼女の場合巴里は大変身近にある。
俳句とは言葉を自分の物にすることである。
饒舌でなくとも、自分の言葉を持ってしてこそ、俳句は自分の物になる。
又、「大陸の男(ひと)の香り」、この様な措辞は此れまで見たことがない。
ウィットにも満ち溢れた表現が素晴らしい。
実際にこの作品からは何故か、するはずが無いのに香りがしてくるのである。
「巴里の秋」の着地点も見事である。
文句なしの特選である。
他に感銘を受けた作品として、
ペディキュアの赤ゆらめきて秋湯殿
この作品も俳句の根本である、「晴と褻」「陽と陰」がしっかりと際立っている。
湯気でぼやけている筈の視界に飛び込んでくる強烈な赤。
これは、春・夏・冬ではなく、決定打はやはり秋である。
このまま鋭い感性と気品、骨格を維持して頂きたい。
恥じらひて化粧落とせし藤袴
柴田春雷
「森」洛中支部特選。
これも秋の野に咲く「藤袴」の本質を捉えている。
錦繍の秋も良いが、野ざらしの可憐な花を愛でるのも又格別である。
「恥じらひて化粧落とせし」の措辞が大変素晴らしい。
男性では決して描くことの出来ない世界観を持っている。
「恥じらひて化粧を落とす」という奥ゆかしさと虚飾を捨てて残る上品さが、季語の「藤袴」と絶妙にマッチングしている。
これも句歴は違えど、昌三の
藤袴ひとりあそびの果てに咲く
に匹敵する作品である。
藤袴は準絶滅危惧種であり、現在京都市が再生プロジェクトに取り組んでいる。
万葉時代に歌人が愛でた藤袴というものを、俳句同様、後世に受け継ぎたいと願うばかりである。
俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。
「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。
俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。
追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
スポンサーサイト