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2020年新年句会報

句会報告一部を紹介します。

兼題 : 雪、彼野、冬の虹、数の子

初髪に稲穂のゆれてひかりけり
大森健司
朱の卓にことば敷き詰め女正月
菅城昌三
寒夜かな背表紙にある金の文字
西川輝美
風に酔ひ雷(らい)に酔ひたる雪女郎
速水房男
老松の緑たがわぬ初御空
上田苑江
細雪鍵さがす音聞こえたり
武田誠
真夜中に泣きにきてをり虎落笛
松浦美菜子
吐く息のけものめきたる枯野かな
山本孝史
冬の虹かかりて猫の旅立ちぬ
池上加奈子
子の文のいくつの枯野越えて来ぬ
白川智子
枯野越へ土手を降りれば犬鳴けり
前川千枝
雪しんしんひらがな胸に読みときて
臼田はるか
降る雪やとなりの人に火を点す
中谷かける
食積や小皿に母の影宿る
村田晃嗣
氷瀑のあをおをとせる秘密かな
三谷しのぶ
きんいろの光かけゆく枯野かな
やまだふゆめ
うたた寝や火事に遭ふ夢ばかりなり
柴田春雷

朱の卓にことば敷き詰め女正月
菅城昌三
「森」中央支部秀逸。
これは新年句会にふさわしい挨拶句。
「森」中央支部の開催場所、西陣の老舗小料理屋にある奥座敷の卓は朱。
そこでは、毎度パワフルな女性陣のことばが行き交かっている。
肩がぶつかる程の狭い空間で、しのぎを削って出句される会員の層は厚く、熱気を肌で感じながら、主催者にとってこれ以上の喜びは無い。
「敷き詰め」の措辞から作者の、句座を囲む人々への敬意と、そこにいる緊張感や満足感など、様々な思いが伝わり、想像の余地を持たせる。
それを臆病な性格で一歩引いたところから眺めている作者の様が、季語の「女正月」に現れている。
口数が少なく、言葉足らずな男性目線ならではの微笑ましくも滑稽でもある佳吟作品。

寒夜かな背表紙にある金の文字
西川輝美
「森」中央支部秀逸。
これは季語の「寒夜かな」が非常に効いている。
「背表紙が金の文字」といえば、真っ先に私が思い浮かぶのは、角川春樹事務所刊行本の背表紙である。
以前シリーズ化されていたランティエ文庫だったか、森俳句の会の黎明期より在籍している輝美との良き思い出である。
思い出は月日が経つと共に柔らかいものになるのだが、輝美にとって、手探りで俳句を始めたばかりの頃は身の縮こまるような思いもあっただろう。
「寒夜かな」という季語を持ってくることによって句の格調が上がり、初心を忘れず、身を引き締める思いで本と向き合う作者の姿勢が清々しい。
新年初句会にふさわしく、折り目正しい作品に仕上がった。

風に酔ひ雷に酔ひたる雪女郎
速水房男
「森」中央支部秀逸。
これは発想が非常にユニークである。
「雪女郎」が「風」や「雷」に酔うという措辞が類型もなく面白い。
作者はよく散歩をする。
生家が祇園のお茶屋街の中にあることから、夜の街独特の人間模様を人一倍目にしてきたことであろう。
その中で観察、発見があり、このようなユニークな着眼点が生まれるのだと感じる。
また作者の、女性とは距離を保ちながら、少しセンチメンタルな部分が、俳句の作句にあたり、良い方向に作用しているのだと思われる。
私とはまた違った女性像の描き方である。

老松の緑たがわぬ初御空
上田苑江
「森」中央支部特選。
まさに新年の初句会に相応しい格調もあり、重みもある挨拶句。
「老松の緑たがわぬ」という措辞は写生でありながら、作者自身の生の在り方を示している。
このどしりとした重みのある措辞に対して、季語の「初御空」の絶妙なバランス。
これが私が本来普段から述べている「褻と晴(ケとハレ)」の世界観である。
ここでの「初御空」は、晴天でも曇天でもどちらでも良いだろう。
それにかかわらず清新さを感じるものであり、まだ月や星の残る明け方であっても良い。
作者の普段からの自然、宇宙への畏敬の、気持ちがそこに込められている。
実に清々しい作品。
この特選は私以外、並選でも誰も採らなかったのが、残念である。
選は創作なり。

冬の虹かかりて猫の旅立ちぬ
池上加奈子
「森」祇園支部特選。
ペットを亡くした飼い主の悲しみは計り知れない。
私自身もそれは経験している。
三世帯同居も少なくなった現代日本においては、もはや家族同然であると言えよう。
我が子が親より先に亡くなるいわば逆縁と同じ悲しみなのである。
ペットが息を引き取る時、虹の橋を渡ると言うらしい。
これはいつまでも悲しんでいたら成仏出来ないという考え。
また飼い主に対して、死後も幸せな世界が待っているから安心して欲しいと願う気持ちなどからであろうと思われる。
生き物には全て寿命があり、限りある時間への感謝、執着にとらわれずに前を向いて進む強さ、教えられることは多い。
「冬の虹」という季語に悲しみだけではない作者の一面を感じるのである。

食積や小皿に母の影宿る
村田晃嗣
「森」祇園支部秀逸。
「食積」とはお正月の重箱の別名。
以前、作者から年末年始は御母様と映画を実家で観るのが習慣だったという、微笑ましい話を聞いたことがある。
その御母様は他界されたという。
母親とは男性にとって、生まれて最初に接する女性であり、同じ遺伝子を持つことから、共鳴もすれば反発もする。
作者の心の中では生き続けているであろう大きな存在の欠落。
ふと思い出され、「母の影が宿る」時の儚い美しさこそ、日本の美であり、京都らしさ、しいては俳句の持つ世界感であると思う。
哀感もあり、格調もある一句である。

氷瀑のあをあをとせる秘密かな
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
ここで言う「秘密」とは何であろうか。
作者自身の秘密であろうか、また他人の秘密であろうか、宇宙の秘密であろうか。
いずれにせよ、「あをあをとせる」という措辞がその秘密性をさらに奥深いものにしている。
作者に教えて頂いた美術家、篠田桃紅にこのような、エッセイがある。
白と黒のあいだにある、秘密というものを思う。白と黒のあいだにある一切の秘密を、この夜闇の雪が懐き持っているらしいと私はかぎつけて、滅多にないことだが、心を慄然わせる。
この一節が全てを物語っている。
「あをあをと」したものを「秘密」と捉えた作者の鋭い感性が顕著に現れている。
また季語もこれが「流氷」では成立しない。
「氷瀑」だからこそ作品が直立するのである。

きんいろの光かけゆく枯野かな
やまだふゆめ
「森」鴨川支部秀逸。
作者らしい、力漲る作品。
枯野を見て、自身もエネルギーを喪失しかねないところを、作者の心には希望すら感じられる。
草木が枯れても春には再び息を吹き返すように、人は何かを吸収することで枯渇しないことを信じさせる力がこの作品にはある。
光が、過ぎる、のではなく、「かけゆく」という措辞もより躍動感があって良い。
かけゆく光そのものが、枯れた大地を潤し、何色でもなく「金色(きんいろ)」と言い切る頼もしさ。
男は枯れても女は枯れない。

冬麗やいま来た道を引き返す
柴田春雷
「森」祇園支部秀逸。
作者は女性の中でも特に良く喋る人種なのだが、一見明るく見えるのに、明るい句が一つとして見られない。
良く喋るのは、これ以上踏み込んで欲しくない必死の攻防の心理であると作者は言っている。
寒い冬の間の貴重といえる麗らかな日、人はこぞって外に出るのに、作者はむしろ引き返すのである。
「冬麗」というきらきらとした季語が余計に作者を外界から断絶させ、主流から遠ざかる姿が浮かび上がる。
確立した自己投影の成された作品。


十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員数も増え、さらに充実した句会となっている。

今年「森」東京支部を開設する。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、相手の心に突き刺さる言葉がひとつあればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻(ケ)の言葉で良いのである。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司
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プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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