FC2ブログ

StayHomeー良心とは共に知ることー

StayHomeー良心とは共に知ることー
母校、同志社の創設者 新島襄の教えは良心教育であり、そのことを知る上で、書簡の中に次のような一節がある。

知性だけあって道徳上の主義がなければ、その個人は隣人や社会に対して益をなすよりは一層害をなすであろう。とぎすまされた知性はよく切れるナイフに似ている。かれは仲間をそこな い、自分自身をもほろぼすことになるかもしれない。

良心は英語でconscienceーギリシャ語での本来の意味は「共に知る」であった。
独り善がりの判断ではなく、共に知る上での判断。
これが正しい良心。
StayHomeも良心に従った行動の一つだと思われる。
良心に従った行動とは何なのか、が今、心底試されている時期なのだと思う。
「共に知る」は平たく言えば思いやりの心。買い占めをしない、マスクをつける、人との距離を保つ、等
StayHomeも良心に従った行動の一つです。
大森健司
JoeNiishima
スポンサーサイト



「森俳句会」全支部の休止のお知らせ

新型コロナウィルスのクラスター感染防止のため、「森俳句会」全支部の句会を当面の間休止いたします。 

御希望の方のみ、通信添削にて対応いたします。
俳句とは【座の文芸】です。句座を囲むことで互いを尊重し、高め合い、心を豊かにします。
主催者として断腸の思いの決定でありますが、安全のためご理解くださいます様よろしくお願いします。
尚、中止しました3月中旬以降の句会に関しまして、皆様からお送りいただきました作品は後日こちらに掲載いたしますので、ご了承ください。

「森俳句会」代表 大森健司

2020年2月句会報

句会報告一部を紹介します。

兼題 : 湯ざめ、水仙、氷柱、霜柱

紙漉女(かみすきめ)夕日を桶にをどらする
大森健司
師と弟子の歳を同じく湯冷めせり
菅城昌三
少年の口笛とほく冴え返る
西川輝美
湯ざめかな素顔の女(ひと)のそばにゐる
速水房男
山の湯や湯ざめ心地の下駄の音
上田苑江
霜柱遠くの月へ手を伸ばす
武田誠
光射す氷柱くぐりて奥座敷
松浦美菜子
湯冷めしてシャツにアイロンかけてをり
山本孝史
わだかまり胸にしまひて氷柱かな
池上加奈子
水仙やけふも顔色うかがへり
白川智子
眠れぬ夜長電話して湯ざめかな
前川千枝
湯冷めして一音(いちおん)足らぬ心地せり
臼田はるか
氷柱吐く父の横顔他人なり
中谷かける
薄氷裏に潜むはあの世かな
村田晃嗣
水仙や真夜の鏡のしづもれり
三谷しのぶ
湯ざめかな抱きし黒猫身をそらす
やまだふゆめ
水仙や触れられて水首つたふ
柴田春雷

師と弟子の歳を同じく湯冷めせり
菅城昌三
「森」中央支部秀逸。
人間、生き様は違えど、メカニズムは同じである。
それが逆に悲哀になった秀句。
「師」は勿論、私のことであり、「弟子」は昌三自身のことである。
私達は中学校からの同年代の旧友でもあり、同時に師弟といった不思議な関係。
また本人もブログ「大森健司先生の俳句日記」 (参照 https://blog.goo.ne.jp/haikunikki)の一投目がこのような書き出しで始まっている。
以下引用ー
僕は大森健司先生の元、森俳句会で俳句をかれこれ四半世紀習っています。

中学の時から健司先生は学年の中心的存在の人気者、頭の回転が早い上にスポーツ万能で僕とは全く違う世界の雲上人だと、遠い目で見る存在でした。

その頃の僕は幼少期大病をして小学校時代のほとんどを病院で過ごしたせいなのか、対人が苦手で、部活でも鈍い奴扱いのいわゆるいじめられっ子、なんでこんな派手な学校に入ったのか後悔する毎日でした。

大学で同じクラスになり、ひょんなことで帰りに車で一緒に帰るようになって、家が俳句教室をやっていることを聞かされました。

キラキラしたイメージの健司さんがまさか地味な俳句をしているとはかなりの衝撃で、文学や映画の話を交わし合う延長線で、誘われるように家に着いていって、内弟子を志願しそのまま今に至ります。


このような背景があってこそ、活きる作品。
「湯冷めせり」という季語が何とも彼の自己投影を表現している。その卑屈さと強がった笑いが絶妙に面白味と滑稽味を出している作品。
定型を詠む上での、「俯瞰的な視点」を今一度、、学んでいただきたい。

湯ざめかな素顔の女(ひと)のそばにゐる
速水房男
「森」中央支部秀逸。
(素顔の女(ひと)」という響きが妙に色っぽく、男の願望が詰まった作品。
兼題の「湯冷め」はともすれば通俗な俳句作品になるところを、作者らしく浪漫調に仕上げている。
「素顔の女(ひと)」は夜を共にする女性の湯上がりなのか、それとも花街に住む作者ならではの目にする光景、お座敷前束の間の自由な時間を素顔で過ごす芸舞妓なのか、色々と想像を掻き立てる。
女性の素顔を知っているのは男性にとってある種の特権なのかもしれない。
何をするでもなく、静かにそばで息づく作者の美意識が、いつまでも余韻を残している。

山の湯や湯ざめ心地の下駄の音
上田苑江
「森」中央支部特選。
これはまた作者らしい豊かで大らかな世界観の作品。
中七に季語の「湯ざめ心地の」を持ってきたことも非常に功を奏している。
「湯ざめ」とは、風呂から上がったのち寒気を覚えることであり、プラスには転換しにくい季語である。
しかし、作者はその湯ざめの心理的な翳(かげ)ですら、吹き飛ばし楽しんでいる様が「山の湯」と「下駄の音」から伝わってくる。
湯ざめという季語は古くて新しい感じがあるといえるだろう。
昔の日本、少なくとも江戸時代は今よりも洒落ていたように思われる。
その根本にあるのが、「遊びの精神」である。
遊びとは安易なものではない。
相当な覚悟が必要であり、そこから豊かさが生まれてゆく。
作者のこの作品はそれを奇を衒わずに表現している。
個性というものは普遍性を超えて、またもう一回、普遍化していくということである。

湯冷めして一音(いちおん)足らぬ心地せり
臼田はるか
「森」祇園支部特選。
一音足らぬ心地とは、どんな感じなのか。
音楽であれ、言葉であれ、足りないのでは、と消化不良感を覚えた時、ぴったりとくるものがあれば良いが、蛇足になることもありうる。
そうこうしている間も時間は無常に流れる。
季語に「湯冷め」を持ってきたのが絶妙である。
初々しい感性。特選に値する作品。

薄氷裏に潜むはあの世かな
村田晃嗣
「森」中央支部特選。
この作品がまず目を引くのは作者の天性のセンスと言うべきか、言語のバランス感覚である。
俳句を詠む上での原則として、「や」「かな」「けり」の切れ字の重複は禁止されている。
季語の「薄氷」は、うすごをりの他に、うすらひという読み方があり、俳人はうすらひの方を使いたがる傾向がある。
うすらいだと四文字、語呂を合わすのに、うすらいのだと後に続く中七・下五が上五に吸収され、句の世界観が小さくなる。
すると必然的に「うすらいや」となり、下五は「あの世なり」、これでは「かな」に比べて余韻が無くなってしまう。
上五を「薄氷(うすごをり)」とすることが成功に導いている。
次に、驚くのは作者の季語を捉える的確さである。
「薄氷」とは文字通り、水面に薄っすらと膜を張り、風が吹けばすぐに割れそうな脆さがある。
人間の生死という大きな概念から、人との関係のような感覚に至るまで、物事はミリ単位のことで展開から何から変わってしまう。
その微妙なせめぎ合いが俳句、そして人生をも面白く、豊かにするのではと思う。
一寸先は闇の世の中、狼狽えずに俯瞰する作者の重みが「裏に潜むはあの世かな」という措辞に集約され、決して柳腰では無い意志の強さが水の波紋のように広がる作品と言える。

水仙や真夜の鏡のしづもれり
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
この作品は一言で言えば取り合わせの妙。
二句一章でありながら、二つの世界感がうまく共存している。
兼題「水仙」で唯一の特選句であったが、季語「水仙」に対して「真夜の鏡」を詠んだ作者の感性が素晴らしい。
暗闇で鏡に映る自分を見て、一瞬ドキッとすることがあると思うが、作者の場合はまるで息を潜めて、無理矢理押し殺しているように私には感じられる。
もう一方では、冷めた俯瞰性を垣間見ることも出来る。
水仙という、意識的に見遣ることの無い花と、一瞬振り返り、安心してまた平常心に戻る女性ならではのリアリズムが非常に上手く表現されている。
女性の様々な一面を見せてくれる作者の引き出しの多さは、賛辞に値する。

湯ざめかな抱きし黒猫身をそらす
やまだふゆめ
「森」鴨川支部特選。
これは私が少し、添削を行なっている。
原句は、
湯ざめして抱きし黒猫身をそらし
である。これでは、俳句独自世界観の「切れ」が失われてしまう。
「かな」を使い、下五を「身をそらす」とすることによって、切れがうまれ作品が直立する。
私はまず、ポーの『黒猫』を想像した。
人というのは、常に何かに怯えている。
猫はいわゆる天邪鬼である。思い通りにいかずままならぬ事への不安や焦り、また恐怖がこのポーの短編小説『黒猫』と重なり、作品の神秘性を深めている。
抱いているのは「黒猫」以外、動かない。
よって私のは言い切りを直しただけであり、作者の根本的な思想は揺るぐことはない。
これは正に、自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るというアニミズムの精神である。
季語の「湯ざめ」という日常的なとるにたらないことですら、転換させてしまう作者独自の宇宙観は見事である。
そこに私は大きく共鳴し、この人の作品をもっと見たいという衝動。
それが強く湧き起こる。

水仙や触れられて水首つたふ
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
古風であるがゆえのエロチシズム。
この作品にはそれが存在する。
妙に生々しく、息づかいまで聞こえて来そうである。
まるで私が好きな溝口健二監督作品が描く女性のようである。
不思議と季語の「水仙」が動かない。
これがもし「桔梗」なら作品は全く成立しない。
何故なら桔梗は、凛と上を向いてをり、動じない花なのである。それに比べて「水仙」はまるでうなだれているかのように、うつむきかげんで地味な花なのである。
ここに季語の恩寵が生まれる。
この作品に華はないが、見れば見るほどその良さは反復される。
いつも句会で述べている。
「良い作品は舌で何度転がしても飽きない」
以上。

十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員数も増え、さらに充実した句会となっている。

今年「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、相手の心に突き刺さる言葉がひとつあればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻(ケ)の言葉で良いのである。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司
プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR