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2020年4月句会報

句会報告一部を紹介します。
(新型コロナウィルス拡散防止の為、通信添削)

兼題 : 花(さくら)、鳥帰る、蝶

花冷やひとごゑとほき肘枕
大森健司
宿帳の文字のかすれや鳥帰る
菅城昌三
木の芽和へ人に逢ふ日のさけられず
西川輝美
初蝶やニンフォマニアの胸の内
速水房男
停止線越へて初蝶震へをり
武田誠
春色の列車待ちたる松尾駅
松浦美菜子
車窓より桜遠出をせがみをり
白川智子
初ざくら五弁切り抜く闇夜かな
前川千枝
猫の尾の遊び飽ひては朧かな
臼田はるか
薄桜たましひ抜けて咲きにけり
中谷かける
はなあかり眠れる我を貫けり
三谷しのぶ
髪に遣る手に薄紅の花霞
柴田春雷

宿帳の文字のかすれや鳥帰る
菅城昌三
「森」中央支部特選。
同時作に、
山笑ふ首より下げし社員証
がありこれも自己投影が見事。
滑稽さも大らかさもあり、特選。
宿帳の文字のかすれや鳥帰る
は、作者の成功例としての見事なまでの格調性と季語の恩寵がある。
やはりイメージするのは淡海あたりの鄙(ひな)びた旅館の映像であろうか。
中七の「文字のかすれ」と「鳥帰る」の季語の取り合せが絶妙なまでに美しい。
「宿帳の文字のかすれ」とはデリケートな情感を託したものである。
ここには、ある種の作者の凝結した憂愁と倦怠とが存在する。
しかし、天空には鳥が大らかに群れをなして帰っていくのである。その対比性。
「鳥帰る」という季語をもってきたことによって、作者は己れの新鮮な感受性を再発見している。
実に見事な、非の打ち所のない特選である。

木の芽和えひとに逢ふ日のさけられず
西川輝美
「森」中央支部特選。
作者の強迫観念的な何かが迫り来る作品である。
「ひとに逢ふ日」は一つの例に過ぎず、逃れられない日常への恐怖と解釈出来る。
作者との付き合いが長い故、真面目な性格を知っているので、嫌々ながらも卒なくこなして行く姿が痛々しくもあり、健気であり、可愛くもある。
日常の、誰の目にも止まることの無い作者の、小さな世界での葛藤と小さな攻撃を「ひとに遭ふ日のさけられず」という措辞が的確に表現出来ている。
季語の「木の芽和え」は、作るのに手間がかかる割には箸休めにしかならず、弁当の中で主役になることは無い。
ただ、舌にピリっとくる小さな刺激や芳しい匂いは春の味覚にアクセントをもたらし、作者の人間の存在感や必要性のように思えてならない。
「俳句は座の文芸」、人と裸で向き合い、己れを曝け出すことにある。
作者は今も闘っているのである。

初蝶やニンフォマニアの胸の内
速水房男
「森」中央支部特選。
「ニンフォマニア」とは、色情狂など、ある種病的なものに捉えられやすい。
しかし私は少し異論を唱えたい。
ニンフォマニアの語源はギリシャ神話に登場する「ニンフ」と言われている。
女の妖精の姿をしているニンフには二面性があり、川や海など自然に宿り、恩恵を与える一方で、魔力によって若者を誘惑し、陥れる力がある。
この後者の面を語源に、性欲が人より激しく異常な扱いを受けるのである。
その過剰な性欲の原因を断言することは出来ないが、幼少期の親からの愛情不足などから常に愛されることに飢え、性行為は快楽よりも愛情を確かめる手段の方が上回るのだと推測する。
そう考えると「ニンフォマニア」は実にピュアな心理があるのではと思えてくる。
だからこそ恐ろしく、手に負えなくて腰が引ける者は異常扱いをするのだろう。
女性の中で愛を与えることと、愛を欲しがることは絶妙なバランスを保ち、それを統制するのには男性の力量が試されるのかもしれない。
作者の作品に戻り、季語は「初蝶」である。
春になって初めて目にする蝶、それは可憐でもあり、非現実的な光景が目に浮かぶ。
作者は「ニンフォマニアの胸の内」と描きながら、それを知ろうとするのが、いかに面倒で厄介なことであるのかを知っている。
一瞬目を奪われ、誘惑にかられたい気になるが、そこは深入りせずに遠いスタンスで眺めている。そして、またふらふら歩き出す作者の日常が幻想的であり、季語の「初蝶」によって、耽美的なフランス映画の様に描かれた作品である。

停止線越へて初蝶震へをり
武田 誠
「森」祇園支部特選。
この季語の「初蝶」は作者自身ではないか。
春の不安感が如実に現れている作品。
例えば、電車が入り混んでくる駅のホームに立つ際、うっかり飛び込んで轢かれてしまうのでは、という最悪な事態の妄想にふと捉われる感覚がある。
そして、無事に乗り込めた安心感。
現代社会に於いて、絶対的な安心は存在せず、不安定な気分を何処かに味わいながらも、なんとか最善の策を練るのである。
不安な治世に、自分をさらに不安に陥れる衝動、人は心の中で葛藤しながら、打ち勝って行くしかない。
見事に自己投影を映像化させた作品である。

猫の尾の遊び飽ひては朧かな
臼田はるか
「森」祇園支部秀逸。
春の霞が昼ならば、夜は「朧」である。
猫が尾をせわしく左右に振ってはやめることが繰り返される中に猫のひとり遊びがある。
ひとり遊びは女の特権のようなものでもあり、ままごとや人形遊びがまさにそうである。
作者がどこまで理解しているかは分からないが、季語に「朧」を持ってきて世界観を飛ばしたことは見事である。
退屈な夜をぼんやりと過ごす情景が、はんなりと描かれていて、永遠の少女性をそこに感じることが出来る。
「朧」という季語によってどこか、満たされない作者の寂しさを垣間見ることが出来る。

花明り眠れる我を貫けり
三谷しのぶ
「森」中央支部特選。
春の夜が色っぽく映る幻想的な作品。
「花明り(はなあかり)」とは、桜が満開で、闇の中でもそのあたりがほのかに明るいことをいう。
春の夜の、夢とうつつの狭間に、作者の心にも柔らかい思い出のようなものがぽっと灯ったのであろうか。
「眠れる我を貫けり」とあることから、一瞬ビリビリっと全身にくる感覚だと私は感じる。
春の夜に溶けて眠りたくても、抑えきれない衝動が作者を揺り動かし、眠らせてはくれない。
ある種の矛盾性。
夜の神秘性がここには存在する。
女性の持つ柔らかさと芯の強さを兼ね備え、陰陽のコントラストが鮮やかであり、自己投影のしっかり為された作品。

髪に遣る手に薄紅の花霞
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
「霞」とは、本来春、霧は秋と分けて考えられる。
霧は深く立ち込めるが、霞は、ぼんやりとかすかなもの、ほのかな自然の情景を指す。
この場合の「花霞」は作者の造語であるが、非常に美しいことばであると感嘆する。
この作品での、「花霞」は遠景にあるものではなく、「花霞」の中で「髪に手を遣る」と捉えた方がより色気が出る。
又、措辞の「薄紅の」により古風な女性像が顕著に記されている。
「髪に遣る」は、前髪を掻き上げている姿であろうか。
いずれにせよ、大胆さはないが、身の回りの世界観を美しく切り上げる作者の作品は特選に値する。
ある種の浪漫が確実にそこに存在する。

十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員数も増え、さらに充実した句会となっている。

今年「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、相手の心に突き刺さる言葉がひとつあればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻(ケ)の言葉で良いのである。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森俳句会」ホームページ
http://morihaikunokai.jp
尚、ご質問につきましては、
「森俳句会」
morihaikunokai@gmail.com
までお気軽にご連絡ください。
大森健司
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プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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