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2016年5月句会報

句会報の一部を紹介します。

はつ夏の真つ赤な口を開きけり
大森健司
目刺し焼き愚かなる日々貫けり
菅城昌三
絵扇のどこか悲しき音の中
西川輝美
天国のドアを叩きて花水木
速水房男
遺伝する鎖骨のほくろ夏立ちぬ
河本かおり
栗の香や白く明けゆく夜があり
高木憂
五月雨に濡れしかかとの白さかな
井納佳子
青空に蝶がふれるや風のおと
篠田和
今日もまた行きつもどりつラムネ玉
池上加奈子
白き靴少し汚して会いにゆく
佐藤美奈子
燻(くゆ)らせる煙の長き夏の暮
白川智子
子蟷螂未だ見ぬ父は母が食(は)み
柴田春雷
無辺まで舌なめずりの青田風
平智之

目刺し焼き愚かなる日々貫けり
菅城昌三
他の作品に、
花守に昼の終はりのビスケット
葉桜や平日ダイヤ動き出す
五月闇王継ぐ者を待ちにけり

がある。
今回は「目刺し焼き」の句を選んだ。
この句は角川春樹の影響。これ迄の春樹氏の作品に「目刺し焼く」「秋刀魚焼く」「餅焼く」という季語を使った作品は非常に多い。
ただ、「愚かなる日々貫けり」に昌三らしさ、というものが残っているように感じた。
と、ともに現実の世界への疲弊も垣間見える。
陰を陽に転換することに俳句の小宇宙がある。
その観点からすると昌三のレヴェルを知っているだけに特選にしては甘いと思う句でもある。
座とは感性の斬り合いの場。
今後に期待している。
昌三には平成に名を残す俳人になって貰いたい。

絵扇のどこか悲しき音の中
西川輝美
これは、五体、五感、すべてを触発させる作品である。
輝美の近年の代表作品と言ってもよい。
また抒情にも非常に優れている。
他の作品を圧倒して、群を抜いての5月の「森」中央支部特選。
成功の秘訣に季語の「絵扇」がある。
この絵扇の彩りによって、より寂寥感が募り、色彩感とイメージの復元が為されている。絵扇を扇ぐごとに寂寥感が色を持って微風となり、広がっていくようなイメージが湧く。
その美しさと寂しさとのコントラストが見事に昇華されている作品となっている。
扇は夏の季語であるが、扇子・末広・白扇・扇売りなどは皆これに属して夏の季語となる。
例句として、
帯の上の乳にこだはりて扇さす 飯田蛇笏
烈日に開きて固き扇かな 中村汀女
白扇を捨てて手だけになりて舞ふ 山口誓子

これ等の作品と比べても全く遜色はない。
むしろ上回っているといっても、過言ではない。
素晴らしい、の一言に尽きる。

遺伝する鎖骨のほくろ夏立ちぬ
河本かおり
「森」中央支部での秀逸。
また、これは5月「森」中央支部高得点句でもある。
「夏立ちぬ」という季語が非常にさらりとしていて、句が真っ直ぐで良い。
また「鎖骨」と「夏立ちぬ」の組み合わせも色気と艶があり、成功している。
この句を見たときに次の一句を思い出した。
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷

五月雨に濡れしかかとの白さかな
井納佳子
これは、個人的に好きな作品。
「森」中央支部では秀逸でとりあげている。
夏には「素足」という季語がある。
そこをあえて、「五月雨」と「かかとの白さ」というコントラストによって見事に表現されている。五月雨とは、いかにも日本的な情緒ある言葉。それを殺すことなく「濡れしかかとの白さかな」と中七、下五を持ってきた感性は素晴らしい。

白き靴少し汚して会いにゆく
佐藤美奈子
「会いにゆく」のは好きな人の元であろう、と思われる。
この句には、処女性とそれからの脱皮との葛藤のなかの儚さがある。
そこに女性的な感性を受け取った。
また夏の季語である「白き靴」が清々しく、それを昇華させている。
しかし、その白さは失ったものでもある。
純潔さとそれに相反するものを自己投影させた美奈子らしい作品。

子蟷螂まだ見ぬ父は母が食み
柴田春雷
「森」洛中支部での特選。
これは蟷螂に託して人間の「家族」という題材がモチーフにされている。
勿論、母が実際に父を食べることはない。
虚構と想像の世界観である。
父がいない、という心の穴はよく理解できる。
僕の作品にも父をモチーフとした作品はかなり多い。
第一回俳句現代賞で例に挙げるなら、
竹の子を父なるひとと食べにけり
父の日の日当たる山のありにけり
父なくてひとりに広きバルコニー
秋風や腰のあたりに父の墓
健司

この春雷の父母の虚構も、寺山修司や横溝正史、また江戸川乱歩にあるフィクションの良さである。寺山修司などは作品の中で幾度となく、母を殺している。
まさに愛憎というものに共感した一句。

無辺まで舌なめずりの青田風
平智之
無辺(むへん)とは仏教用語でもあり、広々として果てしのないさま、ことを指す。
これを「舌なめずり」するという表現に、作者の志と見えない心象挑戦を見た気がした。
また「青田風」という季語によって、それが嫌味でなくワクワクするような爽やかさを感じさせるのである。
これは虚空の現実世界に対する作者の実の熱い思い、と受け止めた。
「森」洛中支部での特選。

日本の文化の根底には「守破離」というものがある。これはまずは基礎を徹底的にマスターし、自分の物にし、体得してから己の中で形を変え、最後には全く始めのものとは別の物に生まれ変わるという日本文化の精神である。
堀江貴文氏に「寿司職人に修業は必要ない」というものがあったが、彼の言っていることは超合理主義である。否定はしないが、それを現代の若者達がTwitter等で議論をしているところをみると、まず皆背景となる基礎知識、体感がない。守破離の「離」だけを捉えている。それは個性とは呼ばない。個性とは醸造されるものである。
失敗はどんどんすれば、良い。
それによって己、という存在の価値、器、適性を知ることができる。
俳句に例えるなら、桜は桜の良さ、梅は梅の良さ、菊は菊の、紫陽花は紫陽花の良さがある。皆、違うからこそ、活かされあえるのである。
俳句が「座の文芸」と呼ばれる所以はそこにある。己の特性を活かし、他者と真剣に感性を斬り合う大いなる遊びなのである。
これは世の中には不必要なものかもしれない。いわゆる「夏炉冬扇」である。
しかしそこに答えのない世界であるからこそ、全体重を乗せて真剣に遊ぶということ。
これが、いまの日本の国民には必要ではないか、と思っている。
日本国に日本人として生まれてきたことに誇りを持つためにも必要である。

大森健司











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プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
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