2018年2月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 立春、冴返る、雪 全般

夜半すぎてをんなの耳の冴返る
大森健司
水餅や器といふは割れやすき
菅城昌三
春浅し胸中はまだ無色なり
西川輝美
百年の薄れし屋号冴へかえる
速水房男
冴返る子供の部屋はがらんどう
河本かおり
春雪や人事異動のうわさ聞く
武田誠
侘び寂びを酒とわかちて細雪
松浦美菜子
春の雪心変わりの無いままに
山本孝史
母と子に雪解けの声聞こえけり
池上加奈子
青鬼に呼びとめられて春立ちぬ
白川智子
鴨川に春立つ犬と出逢いけり
前川千枝
役不足などと言われて春たちぬ
臼田はるか
春立つや丸い袋に丸い菓子
中谷翔
春の雪一期一会を宙(そら)に舞い
上田苑江
牡丹雪華燭の宴の窓の外
栗山千教
我の他聴く人もなし雪の声

虹色の春風ふふむ絵筆かな
三谷しのぶ
夜汽車待つ異国の旅や春は来ぬ
村田晃嗣
字余りのやうな人かも春時雨
石田穂實
此の道を隠してくれぬ春の雪
柴田春雷

百年の薄れし屋号冴へかえる
速水房男
「森」中央支部特選。
兼題でもある「冴返る(さえかえる)」とは、冬の季語である「冴ゆ」から来たものであり、春めいてきたと思う頃にひとしお寒さ、つまり春に「冴ゆ」を感じた季語である。
老舗という言葉がある。
100年以上続いた店舗を指し、京都ではとりわけこの老舗へのこだわりが強い。
二代目が初代を超えることは困難を極めるが、温故知新、三代目へと継承してゆく文化、これは俳句にも通じるものがある。
先祖から受け継いだものを真摯な姿勢で後世に語り継ぐ、凛とした心意気や適度な緊張感が「百年の薄れし屋号」という措辞に良く現れている。
京都に長年住む作者の古風な一面は尊敬に値する。

春の雪一期一会を宙に舞い
上田苑江
「森」中央支部特選。
「一期一会」という言葉受け止め方は世代によって異なるだろうが、作者のセンチメンタルになり過ぎない叙情感が、宙に舞いという言葉で上手く昇華されている。
今回の兼題では「立春」も挙げたが、雪が多く、木々の芽吹きさえ感の狂った中、春をとらえるのが難しかったようである。
春の雪の季語が非常に良い。
一期一会の本質をそこに見る気がするのである。
過ぎ去った一年を振り返り、リセットし、新しい一年を迎えるために、春の雪を鑑賞するには手本となる作品ではないだろうか、と思える作品。
出会い期し人日までの餅を食べ 村田晃嗣

虹色の春風ふふむ絵筆かな
三谷しのぶ
「森」名古屋支部特選。
「虹色の」からして色彩感が抜群に素晴らしい作品。
厳しかった冬を堪えてこそ喜びがある春の訪れを五感で捉えた充実感がそこにある。
昨今の日本は地球温暖化の影響もあり、例えば春を楽しめる期間は非常に短く、あっと言う間に木々の葉は鬱蒼としてくる。
初夏の風とは違う、春特有の柔らかい風を、雪が去って伸び伸びとした木々の間から感じとっていただきたい。
「ふふむ」は含むとは多少異がことなる。
中に孕んで待つという意味は同じである。
万葉集でも用いられている用語。
春の訪れに喜びとともに奔らせている絵筆の映像の復元もしっかりと為されている。

夜汽車待つ異国の旅や春は来ぬ
村田晃嗣
作者らしい、スケールの大きな春の作品。
今回、「森」祇園支部秀逸句にあった、
鴨川に春立つ犬と出会いけり 前川千枝
これが、戌年を迎えるにあたり、希望に満ちた可愛らしい女性ならではの作品とするならば、こちらは男性特有の作品といえる。
男の人生とは旅のようなものであり、目の前に与えられた課題を真剣に取り組む一方、次のステージへの助走と飛躍が求められる。
「夜汽車を待つ」静かな時間は作者にとって有意義な時間に違いないだろうし、新しい世界がその先に見える、男性らしい希望に満ちた作品である。その映像や息づかいまでも見えてくるようで見事である。

字余りのやうな人かも春時雨
石田穂實
「森」名古屋支部特選。
「字余りのやうな人」とは一体どのような人なのであろうか。
謙遜のアイロニーと言える作品でもある。
「春時雨」の切れが好く効いており、詠み手がむしろ立ち位置を見失う非常に面白い作品。
これはさすが、元柳人ならではの発想とも言える。
五七五の十七文字に凝縮する難しさを素直に表現している。
春時雨の様に静かに心に降り注ぐような作品である。
また、同時作として、
春の夜ことばの帯を締めにけり
春の夜渋色の帯きつく締め
これらも特選に匹敵する秀吟。
この作者の成長には本当に驚かされた。
勿論、嬉しい驚きである。

此の道を隠してくれぬ春の雪
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
「此の道を隠してくれぬ」という言い切りが、見事である。
春の雪はハラハラ舞い落ちることはあっても、滅多に積もることはない。
作者の「この道」は作者の人生と捉えた。
冬との決別が出来ないことへのもがきが垣間見え、春の雪が切なく映る寂寥感の感じられる作品。
ただ寂寥感だけではなく、そこには強い意志が見受けられる。
あとは詠み手に委ねることにする。

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。


追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。

詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。
「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司

2018年新年句会・新年会報告

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 淑気(しゅくき)、初写真、人日(じんじつ)

背の骨や淑気のなかを水はしる
大森健司
初夢の人であること忘じをり
菅城昌三
この生も輪廻の途中粥柱(かゆばしら)
西川輝美
夕波や音なく過ぐる去年今年
速水房男
傘の内われの世界の淑気かな
河本かおり
背ナに荷を抱へてきたり去年今年
武田誠
碧い目の家族増えるや初写真
松浦美菜子
人日の幾度もタイを直すかな
山本孝史
亡き母の着物纏いて初写真
池上加奈子
寝てよりの千両の雪払ひたる
白川智子
寂しさ来苗字変わりし賀状かな
前川千枝
人日や毛先を少しカールして
臼田はるか
冬の雲過ぎゆき枕高くせり
中谷翔
赤んぼの掌(てのひら)初日掬いをり
上田苑江
なずな摘む未熟な我を恥じながら
栗山千教
啜り込む蕎麦の香や春隣

美酒(うまさけ)にはや骨染めて去年今年
三谷しのぶ
出会い期し人日までのもちを食べ
村田晃嗣
元日の仄(ほの)かな匂い顔洗う
石田穂實
抜き襟のうなじの白き淑気かな
柴田春雷

赤んぼの掌(てのひら)初日掬いをり
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
赤んぼとは、生まれて間もない子供。
または比喩的に、幼稚、世間知らずの人のさまにもいう。ー広辞苑【赤ん坊】ー
自らの出産と、その子供が成人して出産する様を見届ける眼とでは視点が当然違ってきて、この作品は後者かと思われる。
いわゆる俯瞰の句。
だからこそ想像が膨らむ。
混沌とした日本を取り巻く環境下で、未来への不安は広がるばかりである。
生まれたての赤子の無垢な眼に初日はどのようにうつっているのだろうか。
二世代前の人間から見た若者の幼稚さは憂いしかないかもしれないが、わずかな希望を初日に見出そうとしているのは誰なのか、陰と陽を絶妙に織り交ぜ、ともすれば立ち位置までもを見失いそうになりそうな、魅力的な作品である。
文学、藝術において、勿論俳句において正解はない。
後は詠み手の解釈に委ねる。

なずな摘む未熟な我を恥じながら
栗山千教
「森」中央支部秀逸。
春の七草とは、正月七日に摘み採って七草粥に入れる若菜。
芹(せり)薺(なずな)御形(ごぎょう)蘩蔞(はこべら)仏座(ほとけのざ)菘(すずな)蘿蔔(すずしろ)の七種。ー広辞苑よりー
近年七草を摘み揃えるのは困難であり、スーパーで山積みされたパック売りのセットを買うという、なんとも情緒の無い人日を迎えるのが、当たり前のようになってきた。
この句の出句により、正月七日に七種の新菜を奉った宮中行事の、無病息災という本来の意義をはたと気付かされ、まさしく淑気に通じる思いである。
なずなの開花時期は一般的に松の内を過ぎた頃であり、当然食卓に並ぶなずなには花は見受けられない。
鑑賞されることなく、正月休み食べ過ぎた、胃腸を労わる為に、無造作に摘み取られてゆく若菜に対して、未熟な我と謙遜しつつもまた、食す作者の手法は見事と言えよう。

啜り込む蕎麦の香や春隣

「森」名古屋支部特選。
蕎麦の香りはよくほのかと表現されるが、実際言葉に表すのは難しい。
蕎麦の香りを楽しむ食べ方は啜るのである。
これが昨今のミシュランブームで物議を醸し出したのだが、ワインを口に含む時と同じ様に、空気に触れさせることで香りが立つからである。
蕎麦を詠んだ歌人は多く、また文豪と言われた作家には蕎麦好きが多い。
季語の「春隣」がしっかりと恩寵をなしており、作品が平明で素朴なのがこの良さである。

美酒(うまさけ)にはや骨染めて去年今年
安部淑子
「森」名古屋支部特選。
美酒(うまざけ)とは万葉時代よく用いられた枕詞である。
作者を酔わすのは日本酒であると、「はや骨染めて」から想像される。
これがシャンパンやワインでは「はや骨染めて」が活きてこない。
ほろ酔いで頬にほんのり赤みが刺すのは実に色っぽい光景であり、見えるはずのない骨に転換したのは流石のひと言に尽きる。王翰の涼州詩の始めを挙げる。
葡萄美酒 夜光杯
美酒とは勝利の酒、即ち戦をくぐり抜けた男の特権である。その男性的視点を取り入れつつ、女性の魅力を存分にこの作品は昇華されている。
季語の「去年今年」も決してその邪魔をしていない。
今月の新年句会の中で最も感銘を受けた作品。

出会い期し人日までの餅を食べ
村田晃嗣
「森」中央支部秀逸。
山本健吉氏の言葉を用いると、「俳句は挨拶なり、即興なり、滑稽なり」。
この作者の作品はその全てを兼ね備えている。
その意味でも兼題の「人日」の中で最も優れた作品であると言える。
五節句のうち、人日は挨拶の日であり、重要な意味を持つ日だからこそ、この句が光る。
又、「出会い期し」の「期し」が「来し」ではないことにも、作者の冷静で細やかな視点が、作品を 一期一会 にまで転換させている。
人々が気合い十分、むしろ空回りの中、飄々と一人餅を食す作者の滑稽さ、ユーモアがこの句には溢れ、「出会い期し」によって可笑しくも明るく転換されている。この句は「出会い期し」で、文法として一旦切れている。
挨拶句として、全ての作品を凌ぐ作品であるが、奇しくも句会で採ったのは私ひとりであった。
この句を何度も舌で転がして味わって頂きたい。

元日の仄かな匂い顔洗う
石田穂實
「森」名古屋支部特選。
今年度より「森」俳句会に入会された元柳人。
いきなりの特選には驚かされた。
自然に囲まれ花を愛すると見受けられる句が多い。
穏やかな日常であっても忘れない鋭い観察力から生まれたこの作品には、素晴らしい感動が表現されている。
今年の冬は多くの雪に見舞われ特に寒かった。
作者が顔を洗った水はさぞ冷たかったに違いない。身の引き締まる思いだっただろう。
ここにも、淑気が感じられる。
その中で「仄かな匂い」の水で、日常的行為である「顔洗う」という行為が特別に感じられて、非常に良い。
その成功の鍵は季語である「元日」にある。
元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介
同時作として、
真夜中の枕が聞いた冬の雨
があり、こちらも秀吟。
これからに期待したいひとりである。

抜き襟のうなじの白き淑気かな
柴田春雷
「森」祇園支部特選。
ファッションの流行は時として疑問を投げかけたくなるもので、昨年は女性の間で抜き襟のシャツが大流行した。
正直、肌をさらし過ぎて色気の解釈を間違えている方が多いのではないかと思うのだが、抜き襟とは抜き衣紋、つまりは着物の襟が髷(まげ)の鬢付け(びんづけ)油で汚れない様に、襟を後ろに少し引いた着付けの仕方である。
そこに白粉を塗る舞妓の姿は可憐であり、大人になる前特有の、成熟しきっていない色気を感じる。
そこには凛とした女性本来の奥ゆかしい姿が存在する。
洗練された、兼題の「淑気」を用いた秀吟である。

無事に「森俳句会」新年句会及び新年会を開催することが出来たのもひとえに皆様のお陰である。
益々の句会の充実には感無量である。
今回はベテラン勢よりも中堅や新人の方の作品が優れていた。
勿論、俳句は生き方そのものなのでバイオリズムがある。
良くないときは良くない作品を出すべきなのである。句座にその時、その瞬間の自分を曝け出すことに意義がある。
そして何より、継続が大切となる。
今年も私自身、更に努力を務め、句座が刺激となり、安堵となるよう邁進していく所存である。
皆の日々が観察と感動の繰り返しとなるように、少しでもこの森俳句会が力になれば幸いである。
参考までに私、大森健司の新年俳句作品を幾つか列挙する。
背の骨や淑気のなかを水はしる
精髄に筆おろしゐる淑気かな
白絹のつめたさ纏(まと)ふ淑気かな
ひとの日やひとの貌見て寸評す
空に未だにほふものなし初写真
ゆったりと寒水ながる身の内外(うちと)
血の音のしづまるをまつ手套(てとう)かな

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」東京支部を開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司

2017年12月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 数へ日、咳(せき、しはぶく)、枯野

わが生や枯野に雲を泳がせし
大森健司
数へ日や煙草をもらひ火をもらひ
菅城昌三
ひきこもる息が不貞寝の蒲団かな
西川輝美
数へ日やふたつの虹を観てをりぬ
速水房男
北窓を塞ぐ寂しさ来ぬよふに
河本かおり
大仏の下にしはぶき落しけり
武田誠
しはぶきや卸金する夜明け前
松浦美菜子
枯野ゆく寄り添ふだけの傘回し
山本孝史
もがくほど跳ねる氷魚の美(は)しきけれ
池上加奈子
シビ鮪頬張るをんな盛りかな
白川智子
北窓を塞ぎて我を封印す
前川千枝
山茶花や過ぎし面影重ねらる
臼田はるか
冬の雲過ぎゆき枕高くせり
中谷翔
咳もまた客のうちなりローカル線
上田苑江
咳込んでおのれの本性悟りけり
栗山千教
冬銀河彼方に汽笛聞こえけり

漲(みなぎ)れる光や知多の大枯野
しのぶ
母逝きて数え日寂し墨をする
村田晃嗣
咳ひとつ隔つ襖の重さかな
柴田春雷

数へ日やふたつの虹を観てをりぬ
速水房男
「森」中央支部秀逸。
これは季語の「数へ日」によって、「ふたつの虹」の意味が幾つにもとれる。
これは実景だと感じる。
私自身も近い日にふたつの虹を観たからである。
しかし、これが実景であっても、虚像であってもその立ち位置は変化しない。
年を終えるに当たって小さな神様からのプレゼントだと思いたい。
心の温まる作品。

北窓を塞ぐ寂しさ来ぬよふに河本かおり
「森」中央支部特選。
この作品の季語は勿論、「北窓を塞ぐ」。
この作品は「北窓を塞ぐ」と「寂しさ」の間で一旦、「切れ」ている。
北窓は本来、寒さ予防の為に塞ぐものだが、それをダイレクトに「寂しさ来ぬよふに」と言い切った感性は見事である。
こういった例句は歳時記にはない。
北窓を塞ぐの例句は以下の通りである。
北窓を塞ぎて今日の午睡かな 永井荷風
北窓をふさぎし鐘のきこえけり 久保田万太郎
絣地の一枚北窓塞ぎ足す 中村草田男
他に、
「人来れば空咳をする老婆かな」があるが、これも非常に面白い。
空咳をし、独り言をぶつぶつ言っている老婆の姿が目に浮かぶようである。
思わず選句しながら、笑ってしまった。
ユーモラスな作品。

咳もまた客のうちなりローカル線
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
この作品はあたたかく、躍動感に満ちている。
客も疎らな電車の中で、「咳もまた」という措辞によって、明るくのんびりとした車内の映像が復元できる。
しっかりとした観察に以って生まれた作品。
咳という「陰」の存在を、見事に「陽」に転換した素晴らしい作品。
これはひとえに、作者の心の豊かさ、である。

咳込んでおのれの本性悟りけり
栗山千教
「森」中央支部秀逸。
一見穏やかな作者であるが、別の顔が見えた時に作者の面白さがそこに存在する。
おのれの本性とは、余り知りたくないものである。
「本性悟りけり」に恐怖に似た感情を覚える。
その感情を淡々と受け流しているところに、ひと筋縄では行かない作者の生き様を垣間見ることが出来る。
いつまでも興味が続く作品である。
色々なことを詠み手に連想させる面白い作品である。

漲(みなぎ)れる光や知多の大枯野
しのぶ
「森」名古屋支部特選。
この作品はまず、スケールが大きい。
「知多の大枯野」という「陰・褻」の固有名詞に対して、「陽・晴」である「漲れる光」という措辞をダイナミックに持ってきたことによって、成功をもたらした作品。
「光や」、で一旦「切れ」てをり、そこから場面転換が為されている。
このような大胆な転換をする例句は観たことがない。
素晴らしい、の一言に尽きる。
また、他に同時作に、
ブルースや咳きひとつ夜を融(と)く
紅差せば何かが呼ばる冬鏡

があり、共に秀吟。

母逝きて数え日寂し墨をする
村田晃嗣
個人レッスンにて特選。
村田晃嗣氏には事前に季語集と幾つかの句集をお渡ししただけだが、この処女作品には驚かされた。
年の瀬の慌ただしい中、母を見送った男の背中はピンと伸びている。
悲しみを受け止め、昇華させたのか、それともこらえているのかはわからないが、身を持ち直している姿は凛として美しい。
今年もあとわずかという頃は、なんとなく静かで物悲しくもあるが、墨をすり、己を見つめ直すことで、新年に向けてリセットされている。希望の光が射しているようである。
この作品は、俳句の基本でもある以下の三つが踏まえられている。
①映像の復元
②リズムの良さ
③自己投影
また、同時作に他の作品として、
「そこかしこ咳の花咲く大講堂」「鏡中に年行く顔に眉しかむ」がある。
どちらの句もウィットに富んでいる為か、何故か笑みがこぼれる。
「咳の花咲く」という措辞が、授業に集中しきれない生徒を俯瞰的に見る姿に、ある種の愛情が感じられる作品。
「鏡中に年行く顔に眉しかむ」も非常に面白い作品。どこか諧謔的でもある。
「年行く」という季語も絶妙で良い。
鏡の中に写る男の姿に眉をしかめるという行為は非常にウィットに富んだ作品である。
ウィットは、ウィットーウィズダム(知恵)に由来する。
詩の根源とも言えるこの、ウィットを村田晃嗣氏は既に掴んでいる。
心の豊かさは、俳句の豊かさに比例する。
心の豊かさ、とは観察することによる。
心を豊かに、豊かな俳句を望む。


俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
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大森健司

村田晃嗣氏 大森健司「森」俳句会

kojimurata
村田晃嗣氏 *御本人の承諾を得て、御写真掲載させて頂いております

今年は「森」俳句会が大きく飛躍した一年でした。
ブログを通して問い合わせが増え、「森」俳句会の結束力がより強固なものになりました。
ブログを拝読されている皆様、いつも応援有難うございます。
合縁奇縁、人と人とが互いに気心が合うかどうかは皆、因縁という不思議な力によるものです。
この度、我が母校同志社の大教授、そして数々の番組の論客でもあられる 国際政治学者の村田晃嗣氏が「森」俳句会の扉を叩いて下さいました。
動であり静な人。
村田晃嗣氏はこの一言に尽きます。
きっとテレビで御覧になった方々は華やかな風貌と切れのある弁舌に大胆なイメージだけが先行すると思いますが、ご一緒にお酒を酌み交わし、芸術話に花を咲かせ、至極、物腰柔らかな氏の振舞いに「静」の美学を感じました。
茶道、能、狂言、俳句など日本の芸事はすべて「晴と褻」の世界です。
己から脱却し、己を俯瞰し、ただひとつのことを深く掘り下げていくことです。
村田晃嗣氏の秀麗な俳句作品はまた次回掲載させていただきますので、楽しみにお待ち下さい。

この現代社会に於いて、SNSの普及もあり、他者との関わりがより難しくなってきました。
人からの評価に過敏になり、理解されたいという思いはかえって、生きづらくします。
なにかひとつが琴線に触れれば良いのです。
共鳴し、また他者を尊重し、御縁を大切にすることです。
森俳句会の「座」を通して、己を俯瞰し、皆様の気持ちが明るく、軽くなって下されば代表として幸いです。

「森」俳句会 代表 大森健司

2017年11月句会報

句会報の一部を紹介します。

兼題 : 雁、冷まじ、木の実

自堕落によるがまた来て新生姜
大森健司
木の実雨父とはなれず手ぶらなる
菅城昌三
糸いつぽん空より垂れて秋気澄む
西川輝美
香をたひて寂しさだけの十三夜
速水房男
もやもやと秋思の形(なり)の帽子脱ぐ
河本かおり
冷まじくきのふの影を残しゐる
武田誠
豪奢(ごうしゃ)なる女三人すさまじき
松浦美菜子
木の実降る夜をまとひて彷徨す
山本孝史
泣きやめば夢が残りし夜長かな
池上加奈子
雁の列見上ぐるばかり幾度かな
白川智子
手の木の実腕を掴まれ転がりぬ
前川千枝
わが胸の木の実欲しいと神のいふ
臼田はるか
冷まじや地球儀回しゐたりける
中谷翔
列成して雁落日の朱に入りぬ
上田苑江
雁過ぐる百済の風を偲(しの)びをり
栗山千教
宵闇や機械仕掛けの人の群れ

誇らかに乳房行き交う秋の湯屋
しのぶ
雁(かりがね)や女の爪の伸びてをり
柴田春雷

木の実雨父とはなれず手ぶらなる
菅城昌三
「森」中央支部特選。
この句から見ても、作者の立ち位置はこれまでとはかなり異なる。
これまでの昌三の「サラリーマン俳句」から脱却し、男として二本足で立ち突き進む意思表明が感じられる。
先月の昌三の作品は以下である。
藤袴ひとり遊びの果てに咲く
これは「サラリーマン俳句」からの脱却である。
木の実雨父とはなれず手ぶらなる
には、そこから多少の自虐を含む独り身の男としての決別と、解釈しても良いのではなかろうか。
この作品は文句なしの特選であり、自分と向き合った新たな昌三の代表作にもなると思っている。
今月の中でも特に素晴らしく、抜きん出た作品である。
彼のこれからの活動が楽しみである。
同時作として、
雁渡し奥歯の奥を噛みしむる

もやもやと秋思の形(なり)の帽子脱ぐ
河本かおり
「森」中央支部秀逸。
この作品は季語の「秋思」が大変効いている。
これから寒くなる候に、帽子を脱ぐという作者の潔ぎよさは、感慨深いものがある。
作者は大病を患い、それに打ち勝っている。
また、「もやとやと」という措辞に凝縮される真の部分の作者のナイーヴさが愛おしく思える。
助けて欲しいと縋ってくる女性よりも、こういった芯のある凛とした女性のふと見える脆さの瞬間の方が、愛おしい。
又、「もやとやと」の措辞と、「秋思の形(なり)の帽子脱ぐ」との取り合わせの妙も見事である。
これは本来ならば、特選に匹敵する作品であるが、今月は句会のレベルが余りに高すぎたと言ってよい。

泣きやめば夢が残りし夜長かな
池上加奈子
「森」祇園支部秀逸。
これは正に女性的な部分が俳句によって昇華されている。
秋の「夜長」になにかがあって、作者は哀しみに打ちひしがれたのであろう。
しかし、泣くことでそれを一旦受け入れ、「夢」に変える作業は、女性ならではの逞しさ、しなやかさ他ならない。
またさらりと読んでいて、心地よい作品。

列成して雁落日の朱に入りぬ
上田苑江
「森」中央支部秀逸。
この作品は骨格がしっかりと為された作品。
映像の復元も、見事である。
また、「レツナシテカリラクジツノシュニイリヌ」という言葉のリズムも視覚の漢字で見るより、舌で転がしてみると、遥かに良い。
スケールの大きな俯瞰的作品。
列を成して、雁が落日の朱に染まるのが、果たして肯定なのか、否定なのか、静観なのかは詠み手に委ねられる。
良くも詠み手に想像を与える作品。

雁過ぐる百済の風を偲びをり
栗山千教
「森」中央支部秀逸。
この「百済」はいにしえを思っての百済なのか、私見としての百済なのか。
私は前者だと思いたい。
又、過去に俳句を嗜まれているだけあって「雁(かりがね)や」ではなく、「雁過ぐる」といった細やかな表現も含めて、俳句の骨格が為されている。

宵闇や機械仕掛けの人の群れ

「森」名古屋支部特選。
この作品には、前書きに「ブレードランナー」とある。勿論新作の「ブレードランナー2049」の方である。
私はこの映画には興味を持ったが、観ていないので申し訳ない。
ただ、作者の映画に対する刺激は充分に伝わってきた。
まず「機械仕掛けの人の群れ」という措辞が非常に良い。
季語の「宵闇」も決してそれを邪魔していない。「宵闇」とは、十五夜の後の16日から20日くらいまでの月が出る間の闇を指す。その暗さはいっそう深々として、秋が深まってゆくという感慨がある。
また「宵闇」でこういった乾いた抒情詩の俳句は此れまで詠みあげられていない。
根本に流れるのは、私、大森健司俳句作品の「秋のひる誰もが通り過ぎてゆく」「人込みにふと立ち止まる九月かな」「炎天や生き人形が家を出る」と同じと言っても過言ではない。
作者の過去の作品も拝見したが、最近の作品に垣間見る事の出来る知識欲と吸収には目を見張るものがある。作者の過渡期に出会えた事を幸せに思っている。

誇らかに乳房行き交う秋の湯屋
しのぶ
「森」名古屋支部特選。
作者は先月から「森」俳句会に入会された新人であるが、既に俳句の骨格が為されていることには今月も驚いた。
まず映像の復元が出来ることの作品であるが、「誇らかに」という表現によって大らかな女性の生命力と西洋の裸婦像を彷彿とさせる。
またともすれば、男性女性シンボルを作品のモチーフに選ぶには難しいが、作者は「人間賛歌」の域に達しているので、格調がある。
素晴らしくも飽きのこない作品。
同時作として、
無花果やわが胎内のしづもりて
がある。
こちらも非常に鋭い感性とともに淡々と「人間賛美」をしていて良い。

俳句は思いだけではいけない。
十七文字に詰め込みすぎると焦点がぼやけてくる。
それを如何に客観視して相手に知らせるか、否か。
詠み手に如何に想像させるか、写生をすることで気持ちを昇華させるのである。

「森」俳句会は近日、会員も増え、さらに充実した句会となっている。
近い将来「森」名古屋支部、東京支部も開設する予定である。

俳句は言葉足らずでも、饒舌すぎてもいけない。
これは各企業のセミナーでも話していることであるが、99の流れる言葉より、「1の核心」を突いたひと言の方が、相手の心に残る。
話が上手ではない経営者の方々、不得手な経営者の方々もいらっしゃるが、ポイントはたったひとつでいい。
相手の心に突き刺さる言葉があればいいのである。
それは決して多く饒舌ではいけない。
あとはそのひとつの言葉を引き立てるある意味、陰や褻の言葉で良いのである。
多くを語る者は多くを失う。
それは詩歌のすべて。
又、俳句の世界でも同じである。

追記
現在は企業のセミナーやコンサルティングもいくつか行なっております。
言葉の力というものは不可欠であり、非常に重要です。
いかにして短い言葉でインパクトを残すことが出来るか、ということです。尚、川柳や短歌にはない「季語」を勉強することによって言葉の
引出しは確実に堅実に増えます。感受性も高めます。
また「森」句会とともに進めてまいります。
詳しくはまたホームページをご覧のうえ、お問い合わせください。

「森」MORI
http://morihaikunokai.jp
大森健司
プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
お気軽に覗いて下さい。
お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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