ちょっとしたアニメのはなし

今、TSUTAYAレンタルで宮崎駿作品を借りようとすると、、、
ない?!!
と思ったらジブリ総選挙なるものをしている模様。
1位は「千と千尋の神隠し」であるようだ。
異論はないが、個人的には「耳をすませば」「ハウルの動く城」「風立ちぬ」の方が好きである。「千と千尋の神隠し」はキャラクターにそれぞれメタファーがあって、現代社会を上手く反映させている。つまりそこに意図が見えてしまうつまらなさがある。
ポスト宮崎駿と言われる新海誠。
なんでもポスト何々と付けてしまうのは日本人とメディアの悪い癖。宮崎駿氏にも新海誠氏にも失礼にあたる。
10年程前、東京在住時に「秒速5センチメートル」を教えてもらい感銘した。どうも新海誠は文学部卒業で和歌や俳句に関心があるらしく、万葉集や新古今和歌集等に造詣が深いようである。タイトルや台詞、世界観にもそれは顕著に表れている。以降「言の葉の庭」、そして今回の大ヒット作品となった「君の名は。」に至る。どれも素晴らしいの一言につきる。
日本のアニメーションは世界に誇れるものである。
これをまた何でも実写化するのは本当に幻滅するのでやめて頂きたい。
漫画やアニメーションは虚構と現実を彷徨うという良さがあって、生身の人間が演技しようと、それは不可能に近い。また素晴らしい作品を描く人の背景には莫大な読書量や知識、抽斗があり、それを何も知らない俳優や監督、プロデューサーが同じ様に振る舞おうとする行為は烏滸がましく冒涜である。「四月は君の嘘」、そしてこれから上映される「ジョジョの奇妙な冒険ーダイヤモンドは砕けない」。本当に実写化は観る気がしない。
アニメーションには実写以上に美しい世界観と宇宙観が存在する。
漫画とアニメーションを愛する者のひとりとして、本当に実写化は幻滅する。ドラマで近年の中で面白かったのは坂元裕二脚本「最高の離婚」。面白く、切なく、深い。ドラマはオリジナルの脚本が断然に良い。DVDを友人に貸したが、まだ返ってこない、笑。

2016年8月句会報

句会報の一部を紹介します。

耳朶(みみたぶ)や晩夏の風が過ぎにしも
大森健司
青嶺より脈打つ水を掬(すく)ひけり
菅城昌三
遠くきて遠き思ひの籐寝椅子
西川輝美
三伏やもののけの森出でられず
速水房男
夏の川二の腕まぶし人の妻
渡部新次郎
炎(ほむら)の苦絵筆に沈め安居かな
森千花
百日紅きのふの熱をこぼし落つ
河本かおり
団扇手にいちばん星をただ見上げ
井納佳子
夏つばめ絶えずひかりの通りすぎ
前川正美
我が胸の翳(かげ)りぬぐえぬ夕焼けかな
篠田和
一本の雨よりゆだちうまれけり
池上加奈子
かなぶんの刺さる網戸や息果てぬ
佐藤美奈子
実山椒機を待たずして爆ぜにけり
白川智子
香しき蘭香(らんか)の主(ぬし)の姿なき
柴田春雷
箱ひとつ我が身ひとつの更衣
平智之

青嶺より脈打つ水を掬ひけり
菅城昌三
これは「森」中央支部での唯一の特選句である。
まず、躍動感が素晴らしい。それでいて十七文字の中に隙がなく、無駄が無い。
尚且つ、映像の復元もあり、リズムも良い。
奇をてらうことなく真っ直ぐな昌三の部分が垣間見えるここ近年の昌三の中でも珍しい作風。
今でも覚えている。
遠青嶺あそこが僕の小学校
これは昌三がまだ句会を初めて出た同志社大学在学中の作品であり、当時俳句結社「河」副主宰の吉田鴻司氏が並選に採られていたのを記憶している。
その後、同じく「河」全国大会にて角川春樹氏の特選句となった、
鳥渡るポプラは空へ伸びてをり
で全国デビューすることになった。
今回の青嶺の作品は、この句の延長線上にある秀吟と言える。
あれから二十年以上経って、昌三の作品は進化し続けているということである。

遠くきて遠き思ひの籐寝椅子
西川輝美
これは、「森」中央支部での秀逸。
限りなく特選句に近い。ここ数ヶ月の輝美の作品を振り返ってみるとその上達は眼を見張るものがある。
一筋の影を出られず青蜥蜴
船遊こぼるる星をつなぎとむ
海の音をこぼしてゆきしパナマ帽

すべて素晴らしい。
まず、季語に「ぶれ」が無い。
これまでの輝美の作品の特徴としては季語が曖昧であり、浅く、良く言えば素人に分かりやすい作品であった。
が、しかしここ最近、輝美の作風は変化してきている。それは精神的な成長なのか、技巧の上達なのかは分からない。
しかし少なくとも俳句の命である「季語」というものの重き、飯田龍太氏の言う恩寵(おんちょう)の大切さを感じ始めているように思われるのである。それは見事である。

夏の川二の腕まぶし人の妻
渡部新次郎
「森」洛中支部での秀逸。
健康的なエロティシズムが存在する。その成功の秘訣のひとつに季語が「夏の川」であること。
これが「夏の海」だと目も当てられない駄作となる。季語は「付かず離れず」が基本。そういった意味で夏の海は「付きすぎ」になってしまうのである。
またこの作品は技巧的小細工が全くない。
しかし、このエロティシズムには不思議な計算のないからくりが存在する。措辞としての「二の腕まぶし」「人の妻」。つまり取り合わせの妙が絶妙なのである。
詠み手としても気持ちのいい一句。
他の作品に、
炎天や墓から陰へ猫そろり

百日紅昨日の熱を残し落つ
河本かおり
これは「百日紅」の本質をしっかりと捉えている。
同句会で速水房男さんの、
散るほどに路地濡らすかなさるすべり
という作品があった。
同じく秀逸であるが、こちらの「昨日の熱を残し落つ」のがより、本質を捉えていて良い。
措辞として「昨日の熱」が巧みである。
真夏日、炎昼の生活風景、自然風景も背後にしっかりと反映されていて夏という言葉は一語もなくとも燃ゆる大地を彷彿とさせる。
写生の本質を見事に十七文字の世界観におさめている。

団扇手にいちばん星をただ見上げ
井納佳子
非常に素直で瑞々しい作品。
ただ奥行きと抒情感に欠ける。
先月の作品である、
紫陽花の爪に映した下駄の音
こちらの方が数段素晴らしい。
彩りと音。五感全てを刺激する秀吟。
「爪に映した」は季語の「紫陽花」にかかっていると判断する。
何とも言えない女性の奥ゆかしさを見事に昇華させた一句。
下五の下駄の音によってロマンティック過ぎない加減も絶妙に良い。
ここ最近の作者の代表作とも言える。

夏つばめ絶えずひかりの通り過ぎ
前川正美
「森」京都大学支部の特選。
季語の「夏つばめ」と「絶えずひかりの通り過ぎ」に、青春の疾走感を感じた。
句が輝いている。
栄光と破滅。
これは表裏一体にあるが、まだそれを知らない良さがそこに存在する。
ただ純粋にこの清々しい作品を吟味して頂きたい。
これからさらなる飛躍に期待している。

箱ひとつ我が身ひとつの衣更
平智之
我が身ひとつの衣更、だと類想はあるが、そこに「箱ひとつ」となると例をみない。
そのには作者の人生観、世界観、そして確固たる意志を見る事が出来る。
やはり男性らしい作品。
「らしさ」というものは大変重要だと思っている。
現代はすべてがジェンダーレス、ボーダレスな時代になってしまい、「男性らしさ」「女性らしさ」「若者らしさ」「子どもらしさ」というものがどんどん喪失されてしまっているように思われる。女性の地位向上には賛同するし大いに活躍して頂きたい。が、しかし、これは差別ではなく「女性らしさ」というものは芸術に限らず、人生観として非常に大切な役割を担う。男性もまた然りである。
「らしさ」というものは非常に重要なのである。季語はひとつひとつ違う。分かりやすく言えば「桜」には「桜」の良さ、「梅」には「梅」の良さ、「菊」には「菊」の良さがある。各人一人一人の個性は皆違う。それでいて、良いものには普遍的に皆共感する。他の個性に共感するという普遍的な働きを持っている。
それを本当の意味で育てるのが、私の俳句の指導者としての務めであり、宇宙から与えられた役割でもあると認識している。

大森健司










2016年7月句会報

句会報の一部を紹介します。

薄紙にほうたる入れてあるきけり
大森健司
桜桃忌こゑまで濡れる夕べかな
菅城昌三
船遊こぼるる星をつなぎとむ
西川輝美
沈黙の家系図辿る心太
速水房男
梅雨寒や母のお腹に逃げかえる
河本かおり
紫陽花の風に映した下駄の音
井納佳子
鮎食うて真青き月の上りけり
高木憂
白き靴少女自分を捨てにゆく
篠田和
かたつぶり緑と青にのみ死ぬも
池上加奈子
さみだれの夜の東京駅にをり
佐藤美奈子

大森健司









俳句現代賞受賞式にて

第一回俳句現代賞新人賞を受賞して、もう8年になる。
つまり今は第九回俳句現代賞が発表されている頃である。
名だたる俳人や文化人が多数おられた会場。スピーチでは、「実際に目に映らないものや聞こえないものの世界観を自分自身の魂というフィルターでリアルに詠んでいきたい。これからも俳句には全体重を賭けて、生きていきたい」というようなことを述べたような記憶がある。そこは読売新聞等に掲載されていたので、覚えているが、後は記憶にない。
大賞の母の後での、スピーチだったのでいつになく珍しく話しにくい空間であった、のも記憶している。
俳句は、本当に「夏炉冬扇」の文学である。
この世に俳句というものがなくなっても、生きてゆくのに困る人はいないかもしれない。
でも、だからこそその答えのない世界に全体重をかける価値がある大いなる遊びなのである。
己と向き合い、裸で感性を斬り合い、感受性を磨く。
本当にシンプルなことである。
そのシンプルなことが一番大切だと、今改めて感じる。
当たり前のように屋根の下で眠り、何か食べるものがある、
それに感謝しかない。
皆にありがとう、自分自身にありがとう、、、
人は道があり、約束があり、ほんの少しの運があればまたいつか必ず逢えることが出来る。
そう信じて今日も生きてゆく。

選考してくださった角川春樹氏、亡くなられた辻井喬氏、加藤郁也氏に心から感謝の意を改めて述べたい。

俳句現代賞受賞式

大森健司

2016年6月句会報

句会報の一部を紹介します。

吟行(席題:薔薇、花菖蒲、新緑)
薔薇一輪放して白き手が残る
大森健司
日曜の薔薇を探してゐたりけり
菅城昌三
緑さすきのふの道のつづくかな
西川輝美
薔薇園や隣の席は空ひてます
速水房男
滴りて方丈石の語りだす
渡部新次郎
新緑や抱擁する手震えをり
河本かおり
新緑やむかしばかりが光るなり
高木憂
星空の星よこぼれよなめくぢり
篠田和
短夜の酔ひ覚めてまた戻りけり
池上加奈子
本借りて真夏の坂を登りけり
佐藤美奈子
洗ひ髪心逸りて束ねたり
白川智子
軒簾過ぐ極楽の余り風
柴田春雷
己が影伸びて伸びてぞ西日落つ
平智之

今月は京都市立植物園にて吟行句会を催した。席題はその場で、薔薇、花菖蒲、新緑を出した。必ずそれぞれ一句は創ること。
花菖蒲が一番の咲きどころであったが、それだけでは難しいと思い、まだ少し早かったが薔薇を入れた。新緑は「緑」「緑さす」とも言います、と説明したのち、やはりその季節感を思わせる晴れた新緑の天候であった。
皆、即吟で創作しているのでそこは理解頂いた上で、鑑賞してもらいたい。

緑さすきのふの道のつづくかな
西川輝美
これは、「森」中央支部吟行、新緑の席題での特選句。
「新緑」「緑さす」というのは、やはり文字からしても、五月、六月までであって、七月以降は「茂」という表現が適している。
正に植物園内、全てが新緑に覆われていて、またそれぞれの木々によって微妙に異なった緑が風に揺れていた。
それを見事に一句に収めている。
「きのふの道のつづくかな」という、中七下五の措辞がなんとも良い。
そしてさりげなく緑さすという季語を入れることにより、句に嫌味がない。
これは「若葉」でも「万緑」でも成立はしない。新しい生命力の水々しさでは、やはり「新緑」に太刀打ち出来ない。
文句のつけようのない吟行即吟での輝美の一句。

薔薇園や隣の席は空ひてます
速水房男
これも「森」中央支部での特選。輝美と房男さんの二つが特選となった。
これが輝美なら分かるが、作者はいつも近江を詠んでいるだけに余計新鮮に感じた。
また作者の吟行即吟での実力を改めて知った。
薔薇園の周りには至るところにベンチが置いてある。座っているのは、大概老人。それも男性である。
山本健吉氏は
俳句は滑稽なり、俳句は挨拶なり、俳句は即興なり。
と説かれていた。
その観点からしてもこの滑稽さと自虐的でもある可笑しみはそれに値する。
非常に映像の復元と自己投影のある、即興俳句である。

新緑や抱擁する手震えをり
河本かおり
この句を見たときの妙な衝動を覚えている。
「新緑」という希望に満ち溢れている季語に対して、何かに震えている作者。
作者の心の底を見たような気がした。
この抱擁は対象はなんであっても良い。むしろ、そこは詮索すべきではなかろう。
赤ん坊でも良いし、異性でも良い。
しかし、爽やかな新緑の中に震える様を想像すると、不思議なひんやりした不気味さが生まれるのである。そこをかなり評価している。心情の吐露である。
これもまた即吟の良さといえよう。
心を一瞬ひやっとさせるある種の文学的作品である。

滴りて方丈石の語りだす
渡部新次郎
「森」洛北支部での特選。
方丈石とは、鴨長明の草庵(方丈)が建っていた下の大石のことを指す。この上で鴨長明はかの「方丈記」を執筆したと言われている。
場所は確か日野法界寺であったであろうか、定かではない。
それはさておき、この「滴りて」という季語によってこの作品は素晴らしく虚構と現実の世界の狭間で成立している。
見事である。
作者は写生句が得意であり、少し無頼でアウトローなところがある。その良さを存分に発揮している一句といえよう。

洗い髪心逸りて束ねたり
白川智子
この作品は女性ならでは、の作品。
俳句には名誉、肩書き、地位、年齢、性別は一切関係ないが、やはり女性らしさというものを感じる作品である。
これは好きな人の元へ、と向かうのだと捉える方がより美しい。
逸りては、はやりて、と読む。
この「心逸りて束ねたり」という措辞が、より一層、日本女性ならではの抒情ある美しさを引き立たせている。まだ乾いていないであろう黒髪、である。

軒簾過ぐ極楽の余り風
柴田春雷
この句を選句できるひとはまず少ないのでは、なかろうか。
これは「森」洛北支部での特選。
「簾(すだれ)」自体が夏の季語であるが、青簾、竹簾、絵簾、古簾など、数多く存在する。
現代で一般的なのは玄関や窓にかけて、日除けや目隠しの役目をする軒簾。
驚いたのは中七下五のその措辞である。
「過ぐ極楽の余り風」
なんと端的に凝縮された中に広がりのある言葉遣いであろうか、作者の文学的要素に驚きを覚えた作品。
「極楽」の「余り風」という言葉がなんとも絶妙で何度、舌や魂で転がしても飽きがこない。ある種の諦めにも似た達観と余裕の見られる作品である。

ここ1、2年の大森健司の初夏の作品を幾つかここに羅列する。

あるがまま生きて朝焼け泳ぎけり
ほとけとは無なりさみだれさみだるる
わが野性椅子にきしませ五月逝く
木下闇より縄文人の走り出す
黄金虫赤い言葉をこぼしけり
明け易の少女人魚に戻りけり

うすものを着て邯鄲の夢見たり
夏つばめ戦後は遠く近くあり
やがてくる死に緑さす光りあり
ちちははや夏のにほひの雨が降る


大森健司










プロフィール

kenjiomori

Author:kenjiomori
俳句結社「森」主宰、大森健司のブログ★受賞多数。
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お問い合わせは「森」ホームページ にて。

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